[ 2010年03月26日 ]

ジョン・ストックトン(John Stockton)



<プレイヤー列伝>
ジョン・ヒューストン・ストックトン(John Houston Stockton、1962年3月26日 - )は、アメリカ合衆国のワシントン州スポケーン出身の元バスケットボール選手。1980年代から引退までの19年間をNBAのユタ・ジャズでプレイし、歴代最多のアシスト記録、スティール記録を残した名ポイントガード。NBAでは少数派の白人スター選手だった。1992年と1996年のオリンピックで金メダル獲得。1996年にNBA50周年を記念した「50人の偉大な選手」の一人に選ばれ、2009年にバスケットボール殿堂入りした。



<プロ入り前>
少年時代から練習熱心で、早朝から練習が出来るようにと、体育館の鍵を学校職員ではなく彼が所持していたほどである。高校卒業後は地元のゴンザガ大学に進学し、4年生時には平均20.9得点、7.2アシストを記録している。しかし、当時はほとんど無名の存在で、1984年のNBAドラフトでユタ・ジャズに1順目16位で指名を受けた時も、「ゴンザガ大のストックトン?ストックトン大のゴンザガ?」などと言われていた。



<キャリア初期>
デビューして3シーズン、それまで全ての試合に出場していたが、これは主にリッキー・グリーンの控えとしての出場で、出場時間も平均22分程度だった。先発に定着したのは4年目の1987-88シーズンからで、この年は出場時間が平均34分になり、アシスト数はリーグトップの平均13.8本となった。

ユタ・ジャズは1985年にカール・マローンを獲得しており、チームの得点首位だったエイドリアン・ダントリーが翌シーズンにトレードされていた。これは、ストックトンとマローンの将来性を見越したチームが、二人を中心としたチームの再構築を本格化させたことを意味する。翌1988年にジェリー・スローンが監督に就任して以降、この3名を中核とした体制はプロスポーツのチームとしては非常に長期間である16年間続くことになる。



<アシスト量産>
ユタ・ジャズやNBAのファンにとって、ジョン・ストックトンとカール・マローンは不可分のコンビとして認識されるようになる。1980年代後半以降、マローンは毎年30点前後の平均得点を上げ、ストックトンは毎年のようにリーグ最多のアシスト数を記録する。これはストックトンのパスからマローンが得点するというパターンが繰り返されたということであり、二人は互いにとって欠かせない相棒のような関係となっていた。


1987-88シーズン以降、ストックトンは9年連続で平均アシスト数リーグ首位となり、1960年代のボブ・クージーの記録を塗り替えた。1989-90シーズンの平均アシスト数14.5は、現在でもリーグ歴代最高である。1994-95シーズンにはマジック・ジョンソンの記録を抜き、通算アシスト数1万を超える最初の選手となった。2003年に引退した時点でのアシスト数は15,806本で、歴代最多である。

マローンとストックトンの得点パターンには、有名なピック・アンド・ロールのコンビプレイがある。相手のディフェンダーの動きを止めるプレイからフリーになった選手が得点するという一連の流れは実に効果的に機能し、相手チームや観客の誰もが知っているプレーでありながら洗練されたプレーで止める事が困難であり、長年に渡りユタ・ジャズが利用するプレイとなった。



<優勝への挑戦>
1990年代に入る頃には、ストックトンとマローンの選手としての評価は大いに高まっていた。二人は1992年のバルセロナオリンピック、1996年のアトランタオリンピックではドリームチームに選出され、金メダルを獲得している。

ガードの選手層が厚かったこの時代のNBAにあって、ストックトンは毎年のようにオールNBAチームに選ばれた。特に1994年と1995年にはオールNBAファーストチームに選出されている。

しかしチームはなかなか優勝に近づくことができず、ようやくチャンスが巡ってきたのは1997年だった。ジャズはカンファレンス・ファイナルでヒューストン・ロケッツと対戦。ジャズが王手をかけた第6戦の試合終了直前、100対100の同点という場面でストックトンが放った3ポイントシュートはチャールズ・バークレーの頭上を超え、終了のブザーと同時にバスケットに沈んだ。普段寡黙なストックトンが初めてと言っていいほど喜びを爆発させる仕草を見せ、ジャズはチーム史上初のNBAファイナル進出を決めた。

ファイナルの相手はシカゴ・ブルズだった。アウェイでの緒戦と第2戦を落とし、ホームのソルトレイクシティに戻った第3戦をジャズはものにする。

第4戦でストックトンは、NBAファイナル史上に残る名プレイを見せた。残り時間1分、72対73でジャズが1点を追う展開で、マイケル・ジョーダンのシュートミスをストックトンがリバウンド。直後にそのままコートの反対側まで放ったパスは、ジャンプしたジョーダンの手の先をかすめ、カール・マローンに届きマローンがレイアップを決め、ジャズは逆転に成功。ブルズはその後追いつけず、シリーズは2勝2敗とタイになった。
しかしその後の2試合はジョーダンの活躍もあり、ジャズは2勝4敗で優勝を逃す。

翌1997-98シーズンは開幕前に左膝遊離軟骨除去手術を受け、開幕から18試合欠場したが、2年連続でNBAファイナルに進出し再びブルズと対戦。このシーズン、ジャズはホームコートアドバンテージを得ていたものの、ホームでの第2戦を落とし、アウェイでの第3戦は大敗を喫し、第4戦にも敗れてしまう。ホームに戻った第5戦は勝利するが、第6戦はジョーダンを止められず、優勝を果たせずに終わる。

この頃にはストックトンとマローンは30代後半になっていた。ウェスタン・カンファレンスではサンアントニオ・スパーズやロサンゼルス・レイカーズが台頭しており、以降NBAファイナル進出を果たすことはなく、2003年5月2日に引退を表明した。

2004年11月22日にジャズの本拠地、デルタ・センターで引退セレモニーが開かれ、彼の背番号「12」はジャズの永久欠番となった。また現在、デルタ・センターの前には、彼の雄姿のブロンズ像が設置されている。



<プレースタイル>
「ストックトンはアメフトのクォーターバックのように、インカムを使って選手に指示を出している」というジョークが生まれたほどコート全体を把握できるフィールドビジョンを持ち、正確なパスでアシストを量産した。ソウルメイトであるマローン曰く「僕達は目をつぶっていても、お互いがコートのどこにいるか分かる」。
目立ちたがらない性格でプレーの華やかさに欠け、優勝経験もないため、史上最高のポイントガードのランキングを作成するときにマジック・ジョンソンやアイザイア・トーマスに次ぐことが多いが、通算アシスト数、通算スティール数、シーズン平均最多アシスト数、リーグ最多アシスト数連続年数、プレイオフでの1試合最多アシストの記録等を保持している事から、史上最高のポイントガードの称号を贈られても決しておかしくないプレイヤーである。一時期、NBA内でストックトンの数々のアシストの記録に敬意を表し、アシスト王を「ジョン・ストックトン賞」にすべきとの議論が起きたほどである。マジック・ジョンソンが「尊敬に値する人物」と評し、傲慢で何者も恐れないトラッシュトーカーであったゲイリー・ペイトンが「唯一目標にするプレイヤーだ」と公言していた。


ゲームの組み立て、プレーの選択が非常に堅実であったため、フィールドゴール成功率が5割を超えたシーズンが12回もあるなど、ガードとしては極めて高い率を残している。
非常に勝負強いクラッチ・シューターであり、顔色一つ変えずにビッグ・ショットを決める為、 試合終了直前の時間帯はマローン以上に相手チームに恐れられていた。

故障が極端に少ない選手で(当然だっただろうが万全のコンディションを保つよう努力していた結果である)、現役時代19シーズンのうち17シーズンは1試合の欠場もなかった。そのためしばしば「プロの鑑」と形容される。609試合連続先発出場のNBA記録を持ち、盟友マローンも同じく怪我に強かったため、ユタのファンは「太陽が昇らない日があっても、ストックトンとマローンが試合に出ない日はない」と二人を讃えた。

1990年代のNBAでは、大きめのショーツを穿くのが流行し、今や主流となっている。一方ストックトンは昔ながらの小さいショーツを引退まで使い続けた。また、髪型も全く洒落っ気がなく、その風貌は田舎の実直な青年そのものだった。しかし、そのような印象とは裏腹に、実は選手達の間では「陰のダーティ・プレーヤー」としても名高く、審判の目を巧みにはぐらかし、エルボーやユニフォームをつかむなどのプレーを多用していた。あのデニス・ロッドマンをして「NBAで最も汚いプレーをする奴だ」とコメントしている。



<NBA記録>
通算アシスト数:15,806(歴代1位)
1シーズンで記録したアシスト数:1,164(1990-91)
シーズン1試合平均アシスト数:14.5(1989-90)
通算スティール数:3,265(歴代1位)
一つのチームに在籍し続けた期間:19シーズン
同一チームでの出場試合数:1,504
優勝していない選手におけるプレーオフ出場試合数:182
プレーオフ出場連続年数:19
シーズン最多アシスト回数:9
シーズン最多アシスト連続年数:9



<ユタ・ジャズ チーム最多記録>
総出場試合数:1,504
総3P成功数:845
総3P試投数:2,203
総アシスト数:15,806
総スティール数:3,265
1試合平均アシスト数:10.51
1試合平均スティール数:2.17
クォーターFT成功数:11
1試合アシスト数:28
ハーフ・アシスト数:15
クォーター・アシスト数:11
1試合スティール数:9
ハーフ・スティール数:7
クォーター・スティール数:6
ハーフ・ターンオーバー数:7
クォーター・ターンオーバー数:6



<個人最多記録>
得点:34
FG成功:14
FG試投:22
3P成功:5
3P試投:8
FT成功:15
FT試投:16
オフェンスリバウンド:5
ディフェンスリバウンド:8
トータルリバウンド:9
アシスト:28
スティール:9
ブロックショット:3
出場時間:53分



<タイトル・業績>
オールNBA1stチーム:2回(1994,1995)
オールNBA2ndチーム:6回(1988,1989,1990,1992,1993,1996)
オールNBA3rdチーム:3回(1991,1997,1999)
オールディフェンシブ2ndチーム:5回(1989,1991,1992,1995,1997)
オールスターMVP:(1993)
オリンピック男子バスケットボール金メダル獲得:2回(1992バルセロナ大会、1996アトランタ大会)
NBA史上最も偉大な50人に選出:(1996)
年間1000アシスト以上を7回記録。他に年間1000アシストを記録した選手はアイザイア・トーマスとケビン・ポーターのみで、共に一回だけ。
1シーズンで記録したアシスト数の1位から4位までの記録を独占。
通算FG%.515は、ガードとしては史上4番目の高さ。
NBAファイナル出場:2回(1997,1998)
オールスター戦出場:10回(1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,2000)
3ポイントシュートコンテスト出場:2回(1992,1997)
19シーズン中17シーズンで全試合出場。
1990年2月13日から97年4月20日にかけ、NBA史上8番目の長さとなる609試合連続出場を記録。
NBAに在籍した19シーズン全てで、プレーオフに出場。
月間MVP選出:1回(1988年2月)
週間MVP選出:6回
プレーオフ出場試合数歴代10位



<私生活>
・ストックトンは妻との間に6人の子供を持ち、3人の息子(ヒューストン、マイケル、デビッド)は父と同じ高校に進みバスケットボールをプレイしている。

・父親のジャックは、ゴンザガ大学近くで「ジャック&ダンズ」と呼ばれるスポーツバーを経営している。

ゴンザガ大学は1968年にハードロックバンド、レッド・ツェッペリンが初めての米国でのライブを行った場所として知られている。

ビジネス面では、カール・マローンとユタ・ジャズのオーナー、ラリー・ミラーと共同で“Stockton to Malone Honda”というカーディーラーに出資している。

選手としての堅実なイメージを活かし、ソルトレイクシティの銀行のCMに出演したこともある。