[ 2012年04月06日 ]

ケビン・デュラント(Kevin Durant)

ケビン・デュラント(Kevin Durant)
ケビン・デュラント(Kevin Wayne Durant , 1988年9月29日 - )はアメリカ合衆国ワシントンD.C.出身のバスケットボール選手。NBAのオクラホマシティ・サンダーに所属している。ポジションはスモールフォワード。206cm、107kg。愛称はK-Dog,KD。


テキサス大学で一年生ながらカレッジバスケの個人タイトルを総なめにした後、2007年のNBAドラフトにて全体2位指名でシアトル・スーパーソニックス(現サンダー)に入団。新人王の受賞やリーグ史上最年少での得点王、2010年バスケットボール世界選手権大会MVPに輝くなど、注目の若手選手として活躍している。

 

 

<AAU時代>

ケビン・ウェイン・デュラントは兄のトニーと共にメリーランド州シート・プレザントで育った。デュラントが8ヶ月の頃に父は家族のもとを去ってしまったため、幼少期のデュラントを育てたのは母ワンダブラットと祖母のバーバラ・デイビスだったが、彼が13歳の頃に父は家族のもとに戻った。デュラントもトニーも子供の頃からスポーツに熱中し、キャリア晩年のマイケル・ジョーダンが所属したワシントン・ウィザーズを含むボルチモア近郊のプロスポーツチームを応援した。後にデュラントはジョーダンの名を冠した高校トーナメント大会で大会MVPを獲得している。


デュラントは地元のAAU(アマチュア・アスレチック・ユニオン)のバスケットボールチームで瞬く間に頭角を現す。彼のバスケットキャリアの出発点となったのはAAUのプリンス・ジョージ・ジャガーズだったが、ジャガーズには後にNBA選手となるマイケル・ビーズリーも所属しており、片親だったビーズリーは毎日のようにデュラントの家に朝食を食べては、デュラントと一緒に通学バスに乗るという日々を過ごした。さらにジャガーズにはやはり後のNBA選手であるクリス・ブラスウェルも所属しており、デュラント、ビーズリー、ブラスウェルの3人がチームの中核を担ったジャガーズは無類の強さを誇り、2度の全米優勝に輝くが、1度目の優勝では当時11歳のデュラントが後半だけで18得点をあげるという大活躍を見せている。2003年にジャガーズは解散したため、デュラントはDCブルーデビルズに移り、ここではタイ・ローソンとプレーしている。デュラントの中に大きな可能性を見出したAAUコーチのタラス・ブラウンは、夏の間に1日8時間の個人練習を組むという特訓をデュラントに課した。この猛練習が功を奏し、デュラントの才能は高校に入ってさらに大きく花開くことになる。なお、デュラントが現在も使用している背番号「35」は、子供の頃のデュラントを指導し、35歳の若さで亡くなったコーチ、チャールズ・クレイグに因んでいる。




<高校キャリア>

モントロスクリスチャン高校に進学したデュラントは、2年生の時にワシントンポストによって地域年間最優秀選手に選ばれる。この頃急激な成長期に突入したデュラントの身長は6フィート8インチ(約203cm)に達する。デュラントを偉大なガードの選手にするために、ガードに必要なあらゆる技術を仕込んでいたタラス・ブラウンの思惑は、デュラントをフォワード級のサイズを持ちながらガードの技術を持つ怪物へと進化させることになった。デュラントは3年生に進級する時、全米有数のバスケット名門校であるオークヒル・アカデミー高校に転校。ここでAAU時代のチームメートであるタイ・ローソンらとプレーし、デュラントは平均19.6得点8.8リバウンドの成績でパレード誌選出オールアメリカンの2ndチームに選ばれた。4年生時には名コーチ、ストゥ・フェッターが指導するナショナル・クリスチャン・アカデミー高校に転校し、平均23.6得点10.9リバウンドまで成績を伸ばす。フェッターはデュラントを「練習熱心で完璧なサイズを持ち、驚くべきシューティング、ボールハンディング、ディフェンス、ポストアップのスキルを備えた選手」と評している。デュラントはマクドナルド選出のオールアメリカンに選ばれ、2006年のマクドナルド高校オールスターゲームではチェイス・バディンジャーと共にMVPを受賞した。高校卒業後の2006年のNBAドラフトにエントリーすれば同学年のグレッグ・オデンとともに上位指名が見込まれたが、2006年からドラフトエントリーに年齢制限が加えられたことにより、高校生によるアーリーエントリーが不可能となったため、デュラントは彼を熱心に勧誘したテキサス大学に進学することにした。




<テキサス大学>

デュラントを勧誘したテキサス大のアシスタントコーチ、ラッセル・スプリングマンはデュラントの2006-07シーズンを「全米からのスポットライトを浴びて終えるだろう」と予想したが、果たしてスプリングマンの予言は言葉通りとなった。6フィート9インチ(約206cm)の身長にして7フィート4インチ(約224cm)のウィングスパンを誇るデュラントは、4人の一年生が先発を務めるテキサス大ロングホーンズの先発メンバーの一人に選ばれると、瞬く間に頭角を現す。シーズン開幕後、程なくしてデュラントはカレッジ界最高のオフェンシブ・プレイヤーと評されるようになり、その長身と優れたシュート力を活かした彼のプレーはNBAの名選手、ケビン・ガーネットやダーク・ノビツキーらに例えられ、テキサス工科大学戦でデュラントが37得点23リバウンドを記録した際には、テキサス工科大の名コーチ、ボブ・ナイトによって絶賛された。ロングホーンズのコーチ、リック・バーンズは最初、デュラントのためのセットプレーを導入しようとしたが、むしろそれはデュラントを窮屈にさせるものだと悟り、コート上ではデュラントに自由にプレーさせた。その結果、デュラントは平均25.8得点11.1リバウンドの成績で得点・リバウンドの二部門で全米ランキングトップ10入りを果たし、シーズン通算903得点はビッグ12カンファレンスの歴代新記録で、NCAAでも歴代2位、通算390リバウンドは同校の歴代新記録となった。デュラントに率いられたロングホーンズはカンファレンス第3位となるシーズン成績25勝10敗を記録し、カンファレンストーナメントを勝ち抜いて決勝に進出。この試合でデュラントは大学キャリアハイタイとなる37得点をあげるなど活躍したが、試合は延長の末に逆転を狙ったショットをデュラントが外してしまい、84‐88でテキサス大はカンザス大学の前に惜敗した。NCAAトーナメントでは2回戦まで進出した。


デュラントは2006-07シーズンのカレッジバスケ主要個人タイトルを総なめにすることになる。全米バスケットボールコーチ協会選出の年間最優秀選手、オスカー・ロバートソン賞、アドルフ・ラップ賞、AP通信選出年間最優秀選手、ジェームズ・ネイスミス賞、ジョン・ウッデン賞、これら全てにおいて史上初の一年生受賞者となった。2006‐07シーズン終了後にデュラントはNBAドラフトへのアーリーエントリーを宣言し、大学を去ってしまうため、デュラントがテキサス大でプレーしたのは僅かに1年のみだったが、大学は彼が使用していた背番号「35」を大学の永久欠番に指定した。現在ロングホーンズの使用アリーナであるフランク・エーウィン・センターには、テキサス大出身のT.J.フォードの背番号「11」と共にデュラントの「35」のバナーが飾られている。




<NBAドラフト>

2007年のNBAドラフトには多くのスター候補生がエントリーしたため、レブロン・ジェームズらが指名された2003年のNBAドラフト以来の豊作の年として期待された。前述の通り前年からドラフトエントリーに年齢制限が課せられたために2006年のNBAドラフトへのエントリーを見送った選手たちが、こぞってエントリー宣言をしたのである。デュラントと共に2006-07シーズンのカレッジバスケの話題を二分したもう一人の怪物一年生、グレッグ・オデンもエントリーを宣言し、またフロリダ大学をNCAAトーナメント二連覇に導いたアル・ホーフォード、ジョアキム・ノアらも候補生の名簿に名を連ねた。焦点は一位指名権を獲得したポートランド・トレイルブレイザーズがオデンとデュラントのどちらを指名するかであったが、大方の予想通りトレイルブレイザーズはオデンを指名し、デュラントは2位指名でシアトル・スーパーソニックスに入団することが決まった。ドラフト後には大手スポーツメーカーナイキと7年6000万ドルの巨額契約を結ぶが、この数字は新人としてはレブロン・ジェームズに次ぐ歴代2位の数字となった(アディダスからは7000万ドルの契約を持ちかけられていた)。

ドラフト前に行われるプレドラフトキャンプでの候補生の身体・体力検査ではデュラントの成績が注目を集めた。デュラントは84kgのベンチプレスを一度も持ち上げられず、垂直跳も将来のスター候補生としては物足りない66cmを記録し、彼の非力さや身体能力の低さが懸念された。




<NBAキャリア>

シアトル・スーパーソニックス (2007-08)

満を持してプロの世界への扉を開いたデュラントだったが、彼が入団したスーパーソニックスは衰退と混乱の最中にあった。スーパーソニックスは2004-05シーズンのプレーオフ進出を最後に見る間に成績が悪化し、またチーム自体は2006年に売却されており、新オーナー陣らはシアトルからオクラホマシティへの移転を計画し、前オーナーやシアトル市との間で裁判沙汰となっていた。先行きが不透明の中、デュラントという金の卵を得たフロント陣はロスターの大改造を決行。デュラントを獲得したドラフト当日にチームのエースだったレイ・アレンをトレードで放出し、さらにもう一人の主力選手だったラシャード・ルイスも手放した。アレンのトレードではドラフトで5位指名されたばかりのジェフ・グリーンを獲得している。スーパーソニックスは新人デュラントを中心としたチームへと生まれ変わり、2007-08シーズンを迎えようとしていた。

2007年10月31日、デュラントはデンバー・ナゲッツ戦でNBA公式戦デビューを飾り、18得点5リバウンド3スティールを記録(試合はスーパーソニックスの敗北)。11月16日のアトランタ・ホークス戦ではオーバータイムの末にチームを勝利に導く劇的なスリーポイントショットを決め、ナゲッツとの再戦では37得点8リバウンド9アシストと準トリプル・ダブルの成績を記録するなど、前評判通りの活躍を見せる一方で、プロの洗礼も浴び、大学時代には優秀なリバウンダーとして活躍したが屈強なベテラン選手が犇くNBAのゴール下では思うようにリバウンドは取れず、またシュートセレクションの悪さも目立ち、シーズン前半のフィールドゴール成功率は3割台に沈み、さらにディフェンスの拙さも指摘された。そして多くのスター選手を手放したスーパーソニックスは負けに負け、開幕7連敗を皮切りにシーズン中に2度の10連敗以上を喫している。シーズン後半に入ると少しずつシュートセレクションは改善されていき、レギュラーシーズン最終戦では42得点13リバウンド6アシストをあげ、チームを勝利に導いている。最終的には平均20.3得点4.4リバウンド2.4アシストの成績を残した。平均20.3得点は1967-68シーズンにボブ・ルールが記録した平均18.1得点を破るスーパーソニックスの新人記録となった。フリースロー成功率は87.3%の高水準を記録し、課題だったFG成功率も43.0%まで改善されたが、デュラントの最大の武器と言われたスリーポイントシュートの成功率は28.8%と低調だった。そして敗北を重ねたチームはカンファレンス最下位の20勝62敗を記録している。しかしながら新人王レースでは最大の対抗馬であったグレッグ・オデンが膝の故障でシーズンを全休したため、デュラントは2位のアル・ホーフォードに大差をつけてNBAルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞、シアトル・スーパーソニックスにとっての最後の明るい話題を提供した。

デュラントにとってのルーキーシーズン終了後、スーパーソニックスのオーナー陣とシアトル市との間で和解が成立し、ついにスーパーソニックスのオクラホマシティへの移転が決定する。移転に伴いチーム名も変更され、スーパーソニックスはオクラホマシティ・サンダーに生まれ変わった。




オクラホマシティ・サンダー (2008 - )

ロスターの大改造にチームの移転、チーム名の変更とこの2年で目まぐるしい変貌を遂げたサンダーだったが、ドアマットチームとしての立場は変わらず、2008-09シーズン前半はリーグ歴代最低勝率を更新する勢いで負け続けた。デュラントも206cmとパワーフォワード並みの身長でありながら、慣れないシューティングガードを任せられ、自然とアウトサイドシュートが中心となってFG成功率は低迷した。しかしP.J.カーリシモが解任され、スコット・ブルックスが新ヘッドコーチに就任すると、デュラントは本来のスモールフォワードに戻り、以降は高得点を連発。スリーポイントシュートの精度も大幅に改善された。エースの好調、ヘッドコーチの交代劇、そしてこの年の新人であるラッセル・ウェストブルックの活躍でチームの成績も上向き、最終的には前年よりも3勝分増の23勝59敗の成績となった。デュラントはオールスター・ウィークエンドのルーキー・チャレンジに出場し、アマーレ・スタウダマイアーが2004年に記録した36得点を破る大会記録の46得点をあげ、MVPを受賞。また同じくオールスター・ウィークエンドの新イベント、H-O-R-S-Eではジョー・ジョンソンやO.J.メイヨらを破って初代優勝を飾っている。デュラントのレギュラーシーズン成績は平均25.3得点6.5リバウンド2.8アシスト。FG成功率は47.6%、スリーポイントシュート成功率は42.2%といずれも前年より大きく改善された。


多くの専門家らは、2009-10シーズンのサンダーに期待を寄せた。デュラントにラッセル・ウェストブルック、ジェフ・グリーンの平均21.7歳という若さ溢れるチームの核が確立し、また7フッターのネナド・クリスティッチや好ディフェンダーのターボ・セフォロシャ、新人のジェームス・ハーデンと脇役も揃いつつあった。彼らは期待に応えた。過去2年間勝率3割以上を上回ることがなかったサンダーは開幕から勝率5割以上を維持すると、シーズン中盤には9連勝を記録する。チームを飛躍に導いたのはエースのデュラントだった。デュラントは9連勝中にも45得点を含む平均32.6得点を記録、レギュラーシーズン中8回の40得点以上を記録と得点能力を大きく開花させた。また29試合連続25得点以上、7試合連続30得点以上達成はスーパーソニックス時代を含むサンダーのフランチャイズ新記録を樹立。ついには得点王争いを演じるに至り、デュラントはリーグの大スターであるレブロン・ジェームズと得点王を争った末に、シーズン終盤にはレブロンをかわしてリーグトップに立った。レギュラーシーズンの成績は平均30.1得点7.6リバウンド2.8アシスト、FT成功率は90.0%。デュラントは史上最年少となる21歳と197日での得点王となった。NBAオールスターゲームにはコーチ推薦ながら初出場を果たし、15得点5リバウンドを記録。H-O-R-S-Eにも出場し、連覇を達成している。チームはシーズン終盤まで失速することなく好調を維持し続け、最終成績は50勝32敗となった。前年の23勝から実に27勝分を積み上げたことになり、これはリーグ史上でも6番目の飛躍となった。大躍進の立役者であるデュラントはレギュラーシーズンMVPの投票でレブロン・ジェームズに次ぐ第2位の票を集め、オールNBAチーム選考では1stチームに初選出された。デュラントは一躍一流選手の仲間入りを果たしたのである。また、ブルックスHCはNBA最優秀コーチ賞を受賞している。サンダーに改名後初進出となったNBAプレーオフでは、1回戦でいきなり前年チャンピオンチームのロサンゼルス・レイカーズと対戦。コービー・ブライアントやパウ・ガソルら百戦錬磨のベテランスターを擁するレイカーズに対し、プレーオフ未経験の選手が大半を占める若いサンダーの方が明らかに分が悪く、結果はサンダーの一回戦敗退に終わったものの、デュラントらはチャンピオンチームから2勝をあげるという健闘を見せた。

2010-11シーズン 同期入団で、低迷していたスーパーソニックス、サンダーを一緒に引っ張ってきたジェフ・グリーンがトレードで放出されたが、若手の脇役の成長もありチームはさらに躍進し55勝27敗で地区優勝を果たした。デュラントは2年連続得点王、オールNBA1stチーム、さらにはファン投票でオールスターに選ばれ、名実共にスーパースターと認められるようになった。プレーオフに入っても躍進し、ナゲッツ、グリズリーズを順調に破りカンファレンスファイナルまで進出しマーベリックスと対戦。デュラントは孤軍奮闘したが、ダーク・ノヴィツキー、ジェイソン・キッドなどをはじめとする経験豊富なスターたちに圧倒され1勝しかできずに敗退した。それでもドアマットチームからデュラントの成長と共にチームも成績を上げ地区優勝を果たし、さらにはカンファレンスファイナルまで進出し優勝争いができるチームまでに変貌を遂げ、来シーズン以降にリーグ制覇が期待できるシーズンとなった。



<代表歴>

デュラントはテキサス大学在学中の2007年2月にアメリカ代表のトレーニングキャンプに招待された。大学1年生にして代表キャンプ入りしたのはグレッグ・オデンに次いで2人目だった。同年の夏のキャンプにも参加したが、2008年の北京オリンピックの代表には選ばれなかった。デュラントが初めてNBAの得点王に輝いた2010年の夏、彼は世界選手権の代表に選ばれた。しかし北京オリンピックで金メダルを獲得したメンバーの殆どが代表入りを辞退し、ベテランはチャンシー・ビラップスとラマー・オドムの2名のみとなったため、選手権代表チームは非常に若いチームとなり、レブロン・ジェームズやコービー・ブライアントなどのビッグネームが居ないこの代表チームの前評判は決して高くなかった。ところが成長著しいデュラントが世界選手権でも大活躍を見せた。デュラントはトーナメント通算205得点、一試合38得点を含む平均22.8得点をあげて見事にチームを優勝に導き、彼は大会MVPに選ばれた。




<プレースタイル>

様々なシュートオプションを持ち、高身長ながらもガード並みのクイックネスとスピードを持つリーグ屈指のスコアラーである。デュラントの最大の武器は何と言っても驚異的な長さを誇るその四肢である。特別スピードや跳躍力に秀でているわけではないが一歩一歩は非常に大きく、ダイナミックなスライドは彼の身体を必要最小限の動作でペイントエリアへと運び、多少ゴールから離れた場所でジャンプしても、あとはその長い腕を伸ばせば簡単にボールがバスケットに届いてしまうのである。また身長206cm(実際はもっとあるという指摘もある)に加え226cmのウィングスパンという高高度から放たれるスリーポイントシュートをブロックするのは至難の業である。その高身長に加え驚異的な長さのウィングスパンは守備でも生かされ、ブロックやリバウンドにも積極的に参加する。またスピードもあるため小柄なガードの選手をマークすることができる。


20代前半の年齢だが物静かで落ち着いた性格である。そのため「落ち着きすぎてリーダーシップに欠ける」との評価もあったが、2009-10シーズンから2年連続得点王に輝き、また地道にウェイトトレーニングをこなし課題であったフィジカルが改善されるなど、冷静で真摯なプレースタイルが絶賛され始めている。




<タイトル・記録など>
・得点王: 2010, 2011
・オールNBA
・1stチーム:2010, 2011
・オールスター選出: 2010, 2011
・オールルーキー1ndチーム:2008