[ 2010年03月04日 ]

マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)



マイケル・ジェフリー・ジョーダン(Michael Jeffrey Jordan, 1963年2月17日 - )は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手、実業家。NBAのシカゴ・ブルズ、ワシントン・ウィザーズでプレーした。その実績からバスケットボールの神様とも評される人物である。

15年間に渡った選手生活で得点王は10回、年間最多得点11回、平均得点は30.12点でNBA歴代1位、通算得点は32,292点で歴代3位。1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、5度の年間MVP、6度のNBAファイナルMVP受賞。現役時代の背番号23はシカゴ・ブルズ、マイアミ・ヒート、ノースカロライナ大学の永久欠番。2009年にバスケットボール殿堂入りした。

2009年現在は、シャーロット・ボブキャッツの共同オーナーの一人として、球団経営に携わっている。



概要>
類まれな運動能力に恵まれ、ジャンプの滞空時間の長さから、「エアー (Air)」という愛称を持ち、空中での動きに非凡な才能を見せた。1992年のバルセロナオリンピックにおけるドリームチームとしての出場、所属したNBAのシカゴ・ブルズを通算6回の優勝に導いたこと、そしてその並外れた技術により世界的な人気を集め、NBAの知名度向上や商業的な成功に大いに貢献した。1984年と1992年のオリンピック金メダリスト。1996年にはNBA50周年を記念した50人の偉大な選手の一人に選ばれた。1986年、当時のプレーオフ記録となる63得点を上げたジョーダンに対し、ラリー・バードが"God disguised as Michael Jordan."(彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ)と言ったことから、ジョーダンは神(GOD)に譬えられるようになる。



プレースタイルと偉業>
ダンクをするマイケル・ジョーダン。舌を出すのが彼のトレードマークである。2シーズン弱の引退期間を除き、入団(1984年)から2度目の引退(1998年)まで13シーズンをシカゴ・ブルズで過ごした。主なポジションはシューティングガードだったが、ポイントガードやスモールフォワードもプレーできるオールラウンドな面もあった。

ブルズを退いた1998年の時点でシーズン得点王は10回、通算得点は歴代3位、1試合平均は歴代1位の得点31.5点であり、彼の時代では例外的と言えるほどの高い得点能力を持っていた。インサイドではダンクや独創的なステップと正確に相手の裏をかくドリブルのリズムの変化と方向の切り返しから繰り出すレイアップ、アウトサイドではフェイダウェイジャンプシュートなど幅広いオフェンススキルを駆使した。

特に初期のジョーダンを有名にしたトレードマークは、滞空時間の長い豪快なダンクシュートと、空中で体勢を変えディフェンダーをかわす技術(ダブルクラッチ)で、他の選手が真似できないような空中での華麗なプレーにファンは酔いしれた。また運動能力が低下していたと思われる後期には、ゴール方向から後方にジャンプしディフェンダーから遠ざかりつつシュートを打つ、フェイダウェイジャンプシュートを最大の武器として中間距離からの得点を重ね、得点能力の衰えをあまり感じさせなかった。

そして、何よりも大舞台での勝負強さを兼ね備えた選手であった。プレーオフでのハイライトでの活躍は数々の名場面を生み出し、その度に勝利をもぎ取る姿はファンの記憶に残ることとなった。 彼は6度のNBA優勝(1991年 - 1993年、1996年 - 1998年)を勝ち取り、5度のレギュラーシーズンMVPに輝いた(1988年、1991年、1992年、1996年、1998年)。1985年はルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得。6度の優勝の機会にはそれぞれファイナルMVPを受賞した。彼はまたレギュラーシーズン、ファイナル、オールスターのMVP3冠を1996年と1998年の2度達成している。他にMVP三冠を達成したプレーヤーは1970年のウィリス・リードと2000年のシャキール・オニールだけである。

またリーグでも常にトップレベルの優秀なディフェンダーでもあった。1988年以降は引退していたシーズンを除いて1998年まで9回オールNBAディフェンシブ1stチームに選出されている。1988年にはシーズンMVPと最優秀守備選手を同時受賞した。最も目立つのはキャリア通算で2514スティールで、これはジョン・ストックトンに次ぐ歴代2位であり、一試合平均で2.35スティールは歴代3位の記録。キャリア初期は、その跳躍力に物を言わせガードとしては異例の平均1本以上のブロックショットを記録していた。NBAの大物ジェリー・ウェストをして、「ジョーダンのディフェンス能力はオフェンス以上に強烈だった」と言わしめるほどであった。1998年のNBAファイナル第6戦のウィニングショットもユタ・ジャズのカール・マローンからのスティールから生まれた。リバウンドでも一試合平均で6.2本と同ポジションとしては非常に高い数字を残している。



一方で、遠距離からのシュートを担わされることの多いシューティングガードというポジションでありながら、3ポイントシュートをそれほど得意としていなかった事はあまり知られていない。試投数自体も少なく、成功数が100本を超えたのは1995-96、1996-97の2シーズンのみである。名シューターと呼ばれた選手の多くがキャリアで1000本以上を記録する昨今において、ジョーダンの通算成功数は581本(レギュラーシーズンに限る)と決して多くはなかった。ただし試合の重要な局面を彩る印象的な3ポイントシュートが多く、本来の得手不得手以上に例外的な勝負強さを持っていたため、得意ではないという事が言及されることはあまりなかったと言える。



生い立ち>
ディーン・スミス・センターの天井に飾られたジョーダンのジャージマイケル・ジョーダンは、ジェームズ・ジョーダンとデロリス夫妻の三男としてニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区で生まれた。とても食欲旺盛で、生後3週間でシリアル食品を食べていたという。少年時代の多くをノースカロライナ州ウィルミントンで過ごした。少年時代には兄にバスケットボールの手ほどきを受けていたが、兄にはなかなか勝てなかった。他には野球やアメリカンフットボールをプレーした経験もあった。特に野球は得意なスポーツの一つで、高校まで続けていた。バスケットボールを始めた理由は、ただモテたいと思っていたからだそうである。

地元のE・A・レイニー高校に入学。入学時は学校のバスケットボールチームに入れなかったエピソードはよく知られている。この挫折を乗り越え、1年後にはチーム入りを果たす。その後は注目を集める選手に成長した。

高校卒業後はノースカロライナ大学(UNC)に進学し、地理学を専攻した。後に伝説のショットとして語り継がれている1982年のNCAAトーナメントチャンピオンシップで彼はウィニング・ショットを決め、同校2度目のNCAAチャンピオンに導いた。2年次に彼はチームの主力となり、その年に彼は全米ジュニア選抜に選ばれた。3年次の時にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞した。

この年のシーズン終了後、当時ヘッドコーチだったディーン・スミスの薦めもありプロ入りを決意。1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名された(当時の全体1位はヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワンであった。)。

大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。



<シカゴ・ブルズ、キャリア初期>
入団当初のジョーダンは、期待の新人選手の一人だったとは言え優秀な大学出身の選手として以上の注目はそれほどされていなかった。しかし1年目ですぐにレギュラーの座を掴み平均得点はリーグ上位の28.2、怪我によりシーズンの多くを欠場した2年目は22.7点、そして3年目にはスコアリングマシンとなったジョーダンは毎試合高得点をたたき出し、平均得点は37.1点だった。このシーズン、ジョーダンは初めて得点王になったばかりか、平均得点、シーズン総得点3,000点オーバーはウィルト・チェンバレン以来の例年にない極めて高い水準だった。

得点能力だけでなく運動能力、特に空中でのボディコントロールには抜群のセンスを見せることで若手ながらリーグ屈指の人気選手になっていった。シカゴ・ブルズが遠征で訪れる試合は多くの観客を集め、ホームの試合のチケットは入手が困難になった。

しかしチーム自体は強豪とはほど遠く、ブルズを「ジョーダンとその他4名」とさえ揶揄する記者やファンもいた。ジョーダンはその能力の高さゆえに必然的にボールを持つ機会とシュートの本数が多く、それを独りよがりなプレーだと批判する声もあった。

入団当初のジョーダンは高価なアクセサリーを身に着けて試合することがあり、先輩選手たちには生意気な新人と見られることがあった(現在は金属類のアクセサリーは禁止されている。)。1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない(フリーズ・アウト)という仕打ちを受ける。のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。この事件の首謀者と言われたアイザイア・トーマス(当時デトロイト・ピストンズ)とはしばらく良くない関係が続いた。 しかし、トーマスがヘッドコーチを務めた2003年のオールスターゲームで、ファン選出から漏れてしまったジョーダンを最後のオールスターに先発出場させるために、トーマス自らヴィンス・カーターを説得。カーターはジョーダンに先発の座を譲った。



<ピストンズの壁>
1980年代が終盤に近づくと、この時代イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスが徐々に衰退し始めた。それに代わって台頭してきたのはデトロイト・ピストンズだった。

一方のシカゴ・ブルズは、若手のダグ・コリンズ監督の下で力を付け始め、プレーオフでも勝ち残れるチームに成長していた。

1987年にセルティックスに敗れた翌シーズンより、ブルズは毎年プレーオフでピストンズと対戦するようになる。この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ敗退させた。



ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。

コリンズの指導の甲斐あり、ブルズはレギュラーシーズン82試合のうち、50勝できるチームにまで成長していた。しかし1988年に続き1989年にもプレーオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズに解雇された。翌シーズン、ブルズは選手時代はニューヨーク・ニックスで1973年にNBAチャンピオンとなっており、CBA上がりのアシスタントコーチフィル・ジャクソンを監督に昇格させた。

ジャクソンは新システムトライアングル・オフェンスの導入に取り組むなどチーム強化に努めた。ブルズに加入していた若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレーヤーのジョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着しており、ブルズはジョーダンのワンマンチームからジャクソン監督のシステムと役割分担のチームワークを持った手堅いチームとなっていた。

しかしプレーオフでは、ピッペンの変調などもあり、3勝4敗でまたしてもピストンズに惜敗。このシーズンと前シーズン、ピストンズは連覇を果たしており、チーム史上の絶頂期にあった。



最初のスリーピート>
ピストンズに敗れたものの、ブルズの選手個々人の成長、そしてチームとしての成長は明らかで、翌1990-91シーズンにはチーム史上最多の61勝を上げていた。ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった。(ただし、それでも得点王となっていた。)

プレーオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。

翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の67勝を果たした。再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。ブレイザーズは、1984年のドラフトで全体2位指名権を持ちながらジョーダンを指名しなかった[1]。後にジョーダンは「あの時ブレイザーズに指名されないで本当によかった」と冗談交じりに語っている。

次の1992-93シーズンは、ブルズは57勝と前シーズンより10勝減らしたが、プレーオフでは再びNBAファイナルに進出した。ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、ジョーダンの親友でもありチームのエース、チャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれた。レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。このシリーズで平均41得点(NBAファイナル歴代最高)をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。

1980年代末より「3連覇」を意味する「スリーピート」という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。



引退と復帰>
スコッツデール・スコーピオンズでプレーするジョーダン3連覇後のシーズンオフ、後述の事件により父親を失ったのち間もなく、ジョーダンは1993年9月に突如引退した。全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。引退表明の会見でジョーダンは「もはや証明するものはない」と述べたが、それまで続いていたジョーダンへのバッシング、3連覇によりモチベーションが低下したこと、父を失った衝撃が引退の動機になったとマスコミは推測した。

その後2年間メジャーリーグベースボール (MLB) に挑戦した後、MLBのストライキを契機に1995年3月に再びブルズに復帰。メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。シーズン末の17試合に参加し、チームはプレーオフに臨んだ。

ジョーダンは2年にわたり野球選手として練習を積んだ後であり、バスケットボールにふさわしい体型を取り戻していなかった。加えて、この時ジョーダンは32歳になっていた。引退前のように空中を跳躍するよりはむしろ、ジャンプシュートを中心としたオフェンスが目立つようになっていた。

プレーオフでは、1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗で下し、続くカンファレンス・セミファイナルではオーランド・マジックと対戦した。オーランドはシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという二人の才能ある若手を擁した新進気鋭のチームだった。このシリーズ、ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し、2勝4敗でブルズが敗退する原因の一つとなった。



<後期スリーピート>
1994-95シーズン終了後のオフ、ジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。オフにはジョーダン主演の映画撮影も行われたが、映画撮影の場所付近にジョーダン専用のバスケットボールゴールを設置。ジョーダンの呼びかけに、ピッペン、オニール、レジー・ミラーなどNBAの主力選手が集まり、ジョーダンと共に練習をした。後にジョーダンは、このオフの練習で従来のバスケットボールの感覚を取り戻し、相手選手の動きを把握できるようになったという。

ビル・カートライトやホーレス・グラント、ジョン・パクソンは既にチームを去っており、補強としてブルズはパワーフォワードにデニス・ロッドマン、ヨーロッパの最優秀選手としてチームに加入したガード・フォワードのトニー・クーコッチも3年目を迎えて成長を見せていた。ジョーダン復帰以前に加わっていたロン・ハーパーは優秀なディフェンダーに変貌した。ジョーダン不在の間チームを牽引したスコッティ・ピッペンはリーグでもトップクラスの選手に成長していた。ロッドマンはかつてバッドボーイズと呼ばれたデトロイト・ピストンズの中心メンバーの一人であり、リバウンドにかけては毎年断トツの数字でタイトルを手にしていた優秀な選手であったが、様々な言動で物議を醸したことのある要注意人物であったため、ブルズに馴染めるかどうか、チームワークを発揮出来るのかが人々の関心を集めた。

1995-96シーズンがいざ始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。ジョーダン、ピッペン、ロッドマンはリーグ最強の3人組として注目を集めた。ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレーしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。

シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。この勝ち数はNBA史上最多であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレーオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。

続く1996-97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。プレーオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。初戦のブザービーターや敵地ソルトレイクシティでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。

続く1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、「いつまでプレーするか」が関心の的になっていた。ジョーダンは「ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める」と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。このシーズンはブルズの2度目の「スリーピート」がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。

ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。

5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。この時、解説者のアイザイア・トーマスは「第4クウォーターのマイケルは殺し屋 (killer) だ」と述べた。

ジョーダンはシーズン終了後の1999年1月13日に2度目の引退を発表した。



<ワシントン・ウィザーズでのオーナーおよび人事部門責任者>
1999年、引退後のジョーダンがシャーロット・ホーネッツ(現ニューオーリンズ・ホーネッツ)のオーナー陣に加わるとの報道がなされた。ジョーダンは実際そのために関係者と協議を行っていたが、結局は物別れに終わり、ジョーダンのオーナー入りは実現しなかった。

翌2000年に彼はワシントン・ウィザーズに出資を行い、オーナーの一人となった。同時に同チームのバスケットボール運営部門の社長となった。これは選手の人事に関する責任者になったことを意味した。

この時期のウィザーズは勝ち数20前後と低迷しており、チーム再建がジョーダンに課せられた使命だった。ジョーダンはかつてのブルズの監督ダグ・コリンズをウィザーズ監督に任命。2001年のNBAドラフトでは、ウィザーズは全体1位の指名権を獲得しており、ジョーダンはクワミ・ブラウンを指名した。高卒の新人が全体で1位指名を受けるのはNBA史上初めてのことであり、当時議論を呼んでいた新人の低年齢化を象徴する出来事となった。



<2度目の現役復帰>
NHL選手のマリオ・ルミューの活躍に触発されたジョーダンは、2001年に低迷を続けるウィザーズのために2度目の復帰を果たす。以前はガードのポジションだったが、チーム事情によりスモールフォワードでプレーすることとなった。彼の技術は年相応に衰えてはいたが、2001-02年シーズンはケガに悩まされながらも一試合平均23点の記録を上げた。2002-03年シーズンは1試合平均20点を上げる。ラストシーズンにはリーグ史上唯一の40歳で40得点という記録も樹立した。

復帰当初、ジョーダンはチームをプレーオフに進出させることを目標にすると明言していたが、2001-02シーズンは37勝45敗でイースタン・カンファレンス10位、2002-03シーズンは同じく37勝45敗でカンファレンス9位と目標を果たせずに終わった。


2002年NBAオールスターゲームにおいて、以前は彼の象徴であったスラムダンクを失敗し、視聴者は茫然とした。しかし、その次のシーズンのオールスターゲームでは、試合終了間際に逆転フェイダウェイショットを決めた。直後に同点にされたが、既にシーズン終了後の引退を表明していたジョーダンに対し会場からはジョーダンコールが繰り返された。



<シャーロット・ボブキャッツでのオーナーおよび選手人事最終決定者>
3度目の引退後、ジョーダンはウィザーズのバスケットボール運営部門の職への復帰を希望したが、2003年5月7日、オーナーのエイブ・ポリンは彼を解雇した。後のインタビューでジョーダンはウィザーズに利用されたと感じ、もし引退後即座に首になるということが分かっていたならば2001年に復帰することもなかっただろうと語った。

しかし、ジョーダンのチーム経営に対する熱意は衰えることなく、2006年6月15日ジョーダンは出身のノースカロライナ州にできた新チームシャーロット・ボブキャッツの共同オーナーの一人となり、選手人事の最終決定に関わる役割を担うこととなった。



オリンピック>
ジョーダンはオリンピック米国代表チームで2度プレーし金メダルを得ている。1度目は大学選手として1984年のロサンゼルスオリンピックで、そして2度目は1992年のバルセロナオリンピックでマジック・ジョンソンやラリー・バードと共に夢の競演を果たし「ドリームチーム」と呼ばれた。

バルセロナ五輪でのドリームチームの活躍はセンセーショナルなもので、各試合で大差をつけての勝利を続けた。またアメリカ代表の活躍によりNBAとジョーダンの人気が国際的にも上昇するという効果ももたらした。

金メダル授与の式で、ジョーダンはユニフォームのチャンピオン(スポーツ衣料メーカー)のロゴを星条旗で隠すという行動をとった。これはジョーダンがナイキとスポンサー契約を結んでいたからだが、このあまり見られない行為は話題になった。ジョーダンは金メダルを取った翌年に突如引退しNBAを去った。



<家族の悲劇>
1993年8月、ジョーダンの父親ジェームズは、友人の葬儀からの帰路の途中に仮眠を取るためノースカロライナ州のハイウエイの路側帯に停車していたところ、二人の強盗により殺害された。犯人らはマイケルからの贈り物であるレクサスを盗み、ジェームズの遺体を近くに遺棄した。

犯人たちはジェームズの携帯電話から頻繁に発信を行ったため、直ちに逮捕された。ジェームズは行き先を明らかにせずに数日間外泊することがよくあったため、当初マイケルと家族は捜索願いを提出しなかった。捜索が始まると、ジェームズの遺体は川で発見され、身元不明人として条例により火葬されていたことが分かった。メディアは当初ジェームズの殺害をマイケルが公認していた彼のギャンブル癖と結びつけようとした。ジェームズがゴルフでの賭で何万ドルも失ったことをマイケルが認めたことが広く公表された。

マイケル・ジョーダンが最初の引退を表明したのは、事件が明らかになってひと月あまり後のことだった。



<MLBへの挑戦>
ジョーダンは、シカゴ・ブルズを引退して間もなく、1993-94年のNBAシーズン開幕2日前にMLB・シカゴ・ホワイトソックスの傘下の2A、バーミンガム・バロンズに入団した。多くのファンがマイケルは父親が殺害された悲しみを紛らわせるため子供の頃のもう一つの夢を追求したのだと解釈した。ホワイトソックスのオーナーは、シカゴ・ブルズのオーナーでもあるジェリー・ラインズドーフであるため、実力ではなくコネで入団したのだと反感を持つ野球の選手やファンもいた。

ジョーダンは一回り年下の選手たちに混じりバスで遠征先を周り、懸命に練習を重ねたが、専門家はプロレベルの変化球を打つのは困難だろうと予測した。彼の成績は127試合の出場で打率2割0分2厘、11エラーというものであり、メジャーリーグに昇格することは出来なかった。

1994年にはMLBでストライキが起き、翌年になっても事態は進展しなかった。ホワイトソックス球団は状況を打開するため、選手にオープン戦に出場するよう求め、従わない場合は施設の利用を拒否した。球団社長はジョーダンにはこの処置を適用しないと約束していたが、球団関係者は約束を反故にしようとしたため、ジョーダンとの関係が悪化した。この件はジョーダンがブルズに復帰する一つの契機になった。



<運動能力>
ジョーダンは歴史的に見ても非常に高い運動能力を持っており、見る者の注目を集めるのに十分だった。彼は人が見たこともない動きをしばしば見せ、特に空中でのプレーは見る者を驚嘆させた。また勝つためならどんな努力も惜しまず、96cmだった垂直跳びを地道なトレーニングで全盛期には122cmまで伸ばした。実況するアナウンサーはジョーダンがジャンプすると「TAKE OFF(離陸を開始した)」、「人類が空を飛んだ」と表現したほどである。ジョーダンの個人能力が注目されるようになったのは、シカゴの市場が比較的大きかったこと、キャリア初期にブルズの監督を務めていたケヴィン・ローリーがジョーダンを自由にプレーさせる方針を採ったことも要因になった。またティム・グローバーを専属トレーナーに雇い、故障に強い体を作り上げた。


脅威的なジャンプ力でダンクを決めるイメージが強いジョーダンだが、実はNBA史上最高のオールラウンダーでもある。シュート能力、守備能力、パスセンスなど、バスケット選手として必要な能力を全て持っている。オールラウンダーといっても、どこでもできる「何でも屋」ではなく、どのポジションをやらせても最高クラスのプレーをする。そのためファンの間では、「ジョーダンのようなダンクをする選手はこれからも現れるだろう。だがジョーダンのようなプレーをする選手はもう現れない」と言われることがある。

彼のすばらしい身体能力は生まれつきのものだと思う人も多いが、その恵まれた才能に加え、彼は早くからウエイトトレーニングを導入し、真夜中でも早朝でも思い立ったらすぐ専属トレーナーを呼びトレーニングした。どんな体勢からでもシュートできるようにバランス感覚を鍛え、怪我の予防のため足首の筋力トレーニングも欠かさず行った。結果、捻挫しても2~3日で復帰できたという。また、彼は試合後もクールダウンやケアに時間を費やした。このことで彼は故障の少ないキャリアを過ごしたと言う専門家も多い。
 


<名言>
たとえ私が年寄りの白髪になってプレーが出来なくなったとしても、試合を愛しているだろう。

失敗をすることは耐えられるが、挑戦しないでいることは耐えられないんだ。

私は練習であろうと試合であろうと勝つためにプレーする。何者であろうと私の勝利への意欲の前に立ちはだかることはない。

私は黒人だって知っている。だけど一人の人間として見てもらいたいし、みんなもそう願っているはずだよ。

・何かを成し遂げようと思ったら、必ず障害があるものだ。私にもあったし、誰にでもある。しかしそれが私を邪魔することはない。目の前の壁に突っ込んだなら、絶対に振り向いたり諦めてはいけない。どうやってそれを乗り越えるか、突き進むか、うまく処理するかを考えるんだ。

もし自分の弱みとされる部分に立ち向かわなければならなくなったら、私はそれを強みに変えるやり方でやってきた。

成功したいと思うなら自己中心的でなければいけない。だがもし最高のレベルに達したなら、自己中心的であってはいけない。他人とうまく付き合い、一人になってはならない。



<その他>
・1989年に結婚、妻との間にジェフリー、マーカス、ジャスミンという二男一女をもうけた。ジョーダンはイリノイ州ハイランドパークに居を構えている。ジェフリーとマーカスは同じ高校に通いバスケットボールをプレーしている。ファニータ夫人は2002年に離婚訴訟を起こしたが、のちに和解した。だが2006年12月29日、ジョーダン夫妻は「17年間の結婚生活に円満に終止符を打つことを決意した」との声明を発表し、離婚した。妻には財産分与として1億5000万ドル(約150億円)以上が渡される見通しである。

・ジョーダンは最も早い時期に頭をスキンヘッドにしたNBA選手の一人だった。彼が年齢のわりに早く禿げあがり始めたことが理由の一つだったが、1990年代初頭以降スキンヘッドは北米の若者、特に黒人男性の間ではファッションとして受け入れられるようになった。同じ時期、ジョーダンは大きめのショーツ(バギー・ショーツ)を穿いて試合に出るようになった。この頃にはミシガン大学のファブ・ファイブと呼ばれた選手たちも同様のスタイルで話題を集めており、90年代のNBAではバギー・ショーツが主流になった。

・ジョーダンは、試合中に集中している時には舌を出す癖があることでも有名だった。これは彼の祖父が車の修理をするときによく舌を出しながら作業していたからである。

・日常生活ではゴルフを愛好しており、試合のある日に数ホール回ることもしばしばあった。ゴルフ好きが行きすぎ、1990年代前半には賭けゴルフが社会の批判を浴びたこともあった。

・試合前には必ずステーキとポテトを食べて試合に臨んでいる。

・1990年に、オールスター戦前夜のスリーポイントコンテストに出場したが、歴代最少記録の5本に終わった。

・1990年2月14日のオーランド・マジック戦の試合前にユニフォームを盗まれ、1試合だけ急遽空いていた番号の12番(背中に"JORADAN"とは記されていない)を付けて出場し、マジックに敗戦しながらも49得点を記録した。

・1995年の最初の復帰に際して、今までの背番号を“23”から“45”へ変更した。これはMLBへの挑戦の際につけていた番号であり、父親が最後に見た23番のユニフォームの歴史を変えたくないという思いがあった。しかし、前述のオーランド・マジックとのプレーオフ・カンファレンス・セミファイナル初戦でミスを連発し、それに対する気分転換のため、ブルズの用具係の提案で23番のユニフォームを着用した。この行為はリーグからクレームがつき45番に戻すよう発表がされたが、ジョーダンが拒否。ブルズもそれを支持したため、シーズン終了後2万5000ドル罰金を科せられた。
元々45番は尊敬する兄が学生時代につけていた番号であり、23番はその半分に一番近い数字という意味で選んだものだった。

・もう一人のアメリカの著名な"MJ"、2009年6月に逝去したマイケル・ジャクソンと彼のミュージックビデオ『JAM』の中で共演したことがある。ビデオの最後にはジョーダンがジャクソンにバスケットを教えるシーンと、ジャクソンがジョーダンにダンスを教えるシーンが映っている。



・出場停止は2回あり、1度目は1992年2月3日のユタ・ジャズ戦での3回目の延長戦の0.5秒で審判の判定で抗議したあとに、審判に過剰に詰め寄り退場となった。2度目は1993年2月10日のインディアナ・ペイサーズ戦での第1Qでレジー・ミラーがシュートを決めた後、トラッシュトークでジョーダンが乱闘を起こした(しかし退場はレジー・ミラーのみ)。

・2001年夏、練習試合でロン・アーテストに肋骨を折られてしまった。