
ジェイソン・キッド(Jason Kidd, 本名:Jason Frederick Kidd , 1973年3月23日 - )は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。カリフォルニア州サンフランシスコ出身。アメリカ男子プロバスケットボールリーグNBAのダラス・マーベリックスに所属している。ポジションはポイントガード。背番号は長年「5」をつけてきたが、2008年のマーベリックス復帰に伴い、現在は「2」をつけている。
類稀なパスセンスに広いコートビジョン、そして卓越した統率力を備えており、ニュージャージー・ネッツを2年連続NBAファイナルに導いたことにより、その評価を不動のものとした。193cm、95kgとポイントガードとしては大柄な肉体を武器にトリプル・ダブルを量産しており、Mr.トリプル・ダブルの称号を与えられている。
<生い立ち>
ジェイソン・キッドことジェイソン・フレデリック・キッドはアフリカ系アメリカ人の父スティーブと、アイルランド系アメリカ人の母アンの間に、6人兄弟の長男として生まれ、オークランドヒルズで育った。少年時代のキッドは近所のプレイグランドで年長の子供たちに混じってバスケットボールに熱中していたが、その年長の子供の中に居たのが後にNBAでトップポイントガードの地位に上り詰めるゲイリー・ペイトンであり、キッドは何度もペイトンに挑むことでバスケットの技術を培った。年少でまだ背も低かったキッドは、この頃からシュートよりもパスに磨きを掛けていたという。またキッドはバスケット以外にもサッカーでも優れた才能を発揮した。
高校は聖ジョセフノートルダム高校に進学。キッドは同校のバスケットチームを2年連続の州タイトルに導き、自身は最終学年のシーズンに平均25得点7リバウンド10アシスト7スティールの成績を残してネイスミス賞やUSAトゥデイ紙、パレード誌選出の年間最優秀選手、マクドナルド選出のオールアメリカンなど、数々の賞を受賞した。
カレッジバスケ界からも注目の的となったキッドは多くの名門大学からの勧誘を受けたが、その引く手数多のキッドが選択したカリフォルニア大学バークレー校(UCB)への進学は多くのカレッジバスケ関係者を困惑させた。当時のUCBのバスケットボールチームはお世辞にも強豪とは言えず、キッドが入学する前年のシーズンは10勝18敗と負け越しており、パシフィック・テン・カンファレンス(Pac-10)タイトルは1960年に優勝したのを最後に長らく遠ざかっていた。
<カリフォルニア大学バークレー校>
UCBでの1年目にキッドは13.0得点4.9リバウンド7.7アシスト3.8スティールを記録し、Pac-10の新人王とオールチームに選出される。新人にしてPac-10のオールチームに選ばれるのは史上5人目の快挙だった。また通算110スティールはNCAAの新人記録とUCB新記録となり、通算220アシストも同校の記録を更新した。キッドはUCBバスケチームを見事に復活させて1993年のNCAAトーナメント進出に導き、トーナメントでは当時トーナメント2連覇中だったグラント・ヒル擁するデューク大学を破るという波乱を起こしている。この年UCBはSweet16まで進出した。
2年目のシーズンもキッドは更なる活躍を見せ、16.7得点6.9リバウンド9.1アシスト3.1スティールを記録して、再び通算アシスト数のUCB記録を更新すると共に全米でも1位に輝き、UCBにとっては1968年以来となるAP通信選出のオールアメリカ1stチーム、さらに2年生としては史上初となるPac-10の年間最優秀選手に選ばれるが、NCAAトーナメントでは1回戦敗退を喫している。
キッドはUCBでは2年間だけプレイし、NBAドラフトへのアーリーエントリーを宣言。後にUCBはキッドの背番号『5』を永久欠番とした。
<ダラス・マーベリックス>
1994年のNBAドラフトで全体の2位指名を受け、ダラス・マーベリックスへ入団。同シーズン、ルーキーながらチームの司令塔として79試合に出場。11.7得点、7.7アシストのアベレージを残し、グラント・ヒルと共にルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得する。前の年の1993年にドラフトされたジャマール・マッシュバーン(4位指名)、更に前の年の1992年にドラフトされていたジミー・ジャクソン(4位指名)にキッドを加えた3人は、その頭文字から“トリプルJ”と呼ばれ、スタートリオとして話題になるとともに、マーベリックスは将来を大きく期待されるチームとなったはずだった。しかしキッドが2年目を迎えたシーズン、ジャクソンとマッシュバーンの間に軋轢が生じ(キッドはジャクソン派)、結局マッシュバーンがマイアミへ移籍することでトリオは崩壊してしまう。更に、キッドとジャクソンも女性をめぐる三角関係のもつれから対立、キッドもダラスを去ることとなり、1996-1997シーズン中にマイケル・フィンリー、A.C.グリーン、サム・キャセールらとの交換でフェニックス・サンズにトレードされた。
<フェニックス・サンズ>
サンズではチームの主力選手として活躍。サンズのお家芸であるランアンドガンオフェンスにキッドはうまくフィットし、課題とされていたフィールドゴール成功率も4割台に乗せた。キッドが移籍したシーズンのサンズはチャールズ・バークレー離脱の影響で開幕13連敗を喫するなど低迷を極めていたが、キッドの加入により終盤には11連勝するなど追い上げを見せプレイオフに進出、キッドにとっては初のプレイオフとなった。翌1997-1998シーズンには56勝26敗と勝率を大きく伸ばした。ロックアウトで縮小された1998-1999シーズンは、チームメイトに故障者が多かったこともあり勝率を下げたが、彼らの穴を埋めるべく奮起したキッドは16.9得点10.8アシスト6.8リバウンドのアベレージで初のアシスト王に輝き、オールNBAファーストチーム、オールディフェンスファーストチームにも選ばれた。オフにサンズはアンファニー・ハーダウェイを獲得、キッドとハーダウェイのコンビは“バックコート2000”と呼ばれ注目を集めたが、ハーダウェイは怪我がちで本来の力を発揮できず、またキッドもシーズン終盤に怪我でチームを離脱してしまう。しかしながらキッド不在の中でもサンズはプレイオフ1回戦で前年チャンピオンチームのサンアントニオ・スパーズを降す。キッド自身はスパーズを降したシリーズ第4戦で、10アシストと金髪の頭を手土産に復活。キッドにとっては初のカンファレンスセミファイナルへと進出するが、ロサンゼルス・レイカーズに1勝4敗で敗れた。2000-2001シーズンもキッドはアシスト王とオールNBAファーストチームを3年連続で獲得し、チーム成績も勝率6割以上と好調のシーズンを送っていたが、2000年1月に妻への暴行で逮捕されたことに批判が集まり、このオフにステフォン・マーブリーとの交換でニュージャージー・ネッツにトレードされた。
<ニュージャージー・ネッツ>
ニュージャージー・ネッツは1976年のNBA加盟以来その大半を弱小チームとして過ごしており、キッドが加入する前も4シーズン連続でプレーオフ進出を逃しており、前年も26勝56敗と大幅に負け越していた。そのネッツがたった一人、キッドを迎え入れただけでプレーオフどころか、NBAファイナルまで進出してしまったことは、当時のNBAファンを大いに驚かせた。当時のネッツはスコアラーと言える選手が存在せず、得点源が絶対的に不足していた。キッドが加入した2001-02シーズンも平均20得点どころか15得点以上をあげた選手すらおらず、リーディングスコアラーは2年目のケニオン・マーティンで平均14.9得点だった。点が取れない以上ディフェンスで頑張るしかなく、リーグ指折りのディフェンダーでもあるキッドはネッツのディフェンスを大きく向上させ、平均失点を前年のリーグ22位から5位まで引き上げた。またオフェンスではキッドの得意とするアップテンポなバスケスタイルを持ち込むことで得点源不足を補い、平均得点も前年の23位から13位まで押し上げることに成功している。攻守両面の改善という困難な作業を成功させたネッツは前年の26勝の倍となる52勝を記録し、前年のカンファレンス12位から一気に1位まで駆け上がった。プレーオフも勝ち抜いて、NBA加盟以来初のファイナルに進出。ファイナルではシャキール・オニールとコービー・ブライアントのコンビで当時黄金時代を築いていたレイカーズに4戦全敗で完敗を喫したが、このシーズンのネッツのセンセーションはキッドの実力を周囲に改めて知らしめるものとなった。キッドはMVP獲得も有力視されていたが、個人成績は決して派手なものではなかったため(キッドの成績は14.7得点9.9アシストで4年ぶりにアシスト王の座を明け渡している)、MVP投票はティム・ダンカンに次ぐ2位に終わった。
レイカーズをはじめとする西の強豪チームを相手にするには、ネッツはインサイドが非力過ぎた。優勝を目指すネッツは2002-03シーズン前にディケンベ・ムトンボを獲得するが、ムトンボは怪我で満足のいくプレイができず、この補強は失敗に終わった。キッド自身はキャリアハイとなる平均18.9得点でチームのリーディングスコアラーとなり、平均8.9アシストでアシスト王の座にも復帰するが、チームの勝ち星は50に届かず49勝33敗に終わるが、カンファレンス2位の座は堅守した。プレーオフでは1回戦でミルウォーキー・バックスを4勝2敗で破ると、続くボストン・セルティックス、インディアナ・ペイサーズとのシリーズを全勝で制し、2年連続のファイナル進出を果たした。ファイナルでキッドたちの前に立ちはだかったのは、前年キッドのMVP受賞を阻んだダンカン擁するサンアントニオ・スパーズだった。ネッツは第2戦でファイナル初勝利をあげるも地力ではスパーズが勝り、2勝4敗で敗退。キッドのチャンピオンリング獲得の夢は叶わなかった。
このオフにFAとなったキッドのもとに、キッドの優勝の夢を砕いたばかりのスパーズからオファーが舞い込む。是非とも優勝したいキッドにとってこのオファーは大変に魅力的だったが、それでもキッドはネッツでの優勝を望み、ネッツと再契約を結んだ。しかし2003-04シーズンに入るとかねてから噂のあったキッドとヘッドコーチのバイロン・スコットとの不和が公に伝えられるようになり、シーズン途中にスコットはヘッドコーチを辞任。この騒動でチームは安定性を欠いてしまい、前年を下回る47勝35敗の成績でシーズンを終える。プレイオフではカンファレンスセミファイナルでこのシーズン優勝するデトロイト・ピストンズに第7戦までもつれた末に惜敗している。
徐々に個人成績が下降を始めているキッドは、不調の原因である膝を完治させるためオフに手術を決断し、2004-05シーズンの開幕に遅れることが決まった。キッドが行ったマイクロフラクチャー手術は過去にアンファニー・ハーダウェイなど多くの選手のキャリアを奪った危険度の高い手術として知られるが、キッドは見事に復帰を果たし(12月6日のトロント・ラプターズ戦で復帰)、マイクロフラクチャー手術から立ち直りを見せた数少ない例となった。シーズン途中にネッツはヴィンス・カーターを獲得。リーグ最高峰のスラムダンカーとリーグ最高峰のパサーのデュオとして大きく注目を集め、またキッドにとっては怪我でまともにプレイできなかったハーダウェイを除けば初めて組む本物のスーパースターだった。しかしオフにネッツはケニオン・マーティンを放出しており、またもう1人の主力選手であるリチャード・ジェファーソンが故障するなど戦力が揃わず、チームは苦戦を強いられた。プレイオフには滑り込みで出場するも、1回戦でマイアミ・ヒートに惨敗した。
2005-06シーズンは開幕からキッド、カーター、ジェファーソンのいわゆる“ビッグ3”が揃い、シーズン終盤にはチーム記録となる14連勝をマークし、勝率も2年連続でファイナルに出場した頃の水準に戻すが、プレイオフではカンファレンスセミファイナルで再びヒートに敗れた。
2006-07シーズンのキッドはネナイド・クリスティッチとジェファーソンが故障により相次いで戦線離脱し、自身は離婚問題を抱えるなど、公私に渡って厳しい状況に置かれたが、13.0得点8.2リバウンド9.2アシストの好成績を残し、3年ぶりにオールスターにも復帰した(怪我でゲームには不参加)。2人の得点源を欠いたチームは苦戦を強いられ、キッド移籍以来の最低勝率に終わったものの、プレイオフには6シーズン連続の出場を果たした。プレイオフはカンファレンスセミファイナルでクリーブランド・キャバリアーズに敗退したが、キッドはプレイオフ期間中14.6得点10.9リバウンド10.9アシストのトリプルダブルのアベレージでチームを牽引した。
翌2007-2008シーズン、キッドは現役タイ記録となる3試合連続トリプルダブルを叩き出すなど、個人としては好調のシーズンを送っていたが、一方でチーム成績は低迷し、負け越しの状態が続いた。チームの不振と自身の契約に不満を持ったキッドはチームに対し強くトレードを要求するようになり、そして先発出場を果たしたオールスター明けに、ダラス・マーベリックスとの間で8選手が絡む大型トレード(ネッツ側からはキッド、マリック・アレン、アントワン・ライト。マーベリックス側からはデビン・ハリス、キース・ヴァン・ホーン、トレントン・ハッセル、サガナ・ジョップ、モーリス・エイガー及び将来の1巡目指名権2つ、現金300万ドル)が成立。キッドは7シーズン過ごしたネッツを去り、若手時代に過ごした古巣のマーベリックスに復帰することになった。
<再びのマーベリックス>
キッドが離れていた約11年の間にマーベリックスはリーグトップクラスの強豪チームとなっていたが、あと一歩のところで優勝には届かず、キッド獲得は優勝のための最後の手段でもあった。キッドの経験とリーダーシップがマーベリックスに足りなかった最後のピースを埋めると期待されたが、しかしセットオフェンスと1on1を多様するマーベリックスのオフェンスの中でキッドは上手く機能せず、マーベリックスはむしろ失速していまった。プレーオフでは若手PGのクリス・ポール率いるニューオーリンズ・ホーネッツの前に完敗してしまい、翌2008-09シーズンも成績は思うように上がらず、プレーオフではチャンシー・ビラップス擁するデンバー・ナゲッツの前に、またもや完敗を喫した。
<アメリカ代表>
キッドが初めてアメリカ代表に参加したのは彼がカリフォルニア大学バークレー校で最初のシーズンを終えた時であり、彼はチーム唯一の大学1年生だった。代表チームはヨーロッパ遠征をし、3勝2敗の戦績を残している。キッド自身は8.4得点4.2リバウンド4.0アシストの成績を記録した。
キッドが次にアメリカ代表に参加したのは1999年のオリンピック予選(バスケットボールアメリカ選手権)で、キッドは7.4得点4.4リバウンド6.8アシスト2.7スティールを記録し、代表チームの優勝に大きく貢献した。チームキャプテンの一人として臨んだ本番のシドニーオリンピックでは、6.0得点5.3リバウンド4.4アシスト、3P成功率は50.0%を記録し、見事に金メダルを獲得した。キッドは2002年のバスケットボール世界選手権の代表にも選ばれたが、怪我のため出場を辞退した。2003年のオリンピック予選には無事出場したが、2004年のアテネオリンピックは再び怪我で代表を辞退せざるを得なかった。この時、アメリカ代表はオリンピックにNBA選手を送り出して以来、初めて金メダルを逃している。
以後、暫く代表には参加していなかったキッドだったが、2007年のオリンピック予選では代表入りの意思を示した。アテネで金メダルを逃したアメリカ代表は以後若手選手中心のチーム構成で戦ってきたが、2006年の世界選手権でも満足のいく結果は得られず、ベテランのキッドの代表入りは歓迎すべきことだった。キッドはオリンピック予選、本番の北京オリンピックで殆どの試合で先発出場し、期待されたリーダーシップも存分に発揮して金メダル奪回に貢献した。
キッドはエキシビジョンゲームも含めて出場した国際試合全56試合で無敗という成績を誇っている。
<プレイスタイル>
キャリア初期の頃は苦手としていたフリースローだが、その後克服しているキッドは過去5回のアシスト王を誇る有能なプレイメーカーであり、また2度のトレードで移籍先のチームの勝ち星を大幅に増やしたことから、現役、あるいは歴代屈指の司令塔との評価を与えられている。特に2001-02シーズンのネッツは顕著であり、キッド以外のメンバーはほとんど変わっていないにも関わらず、キッドが持ち込んだ「意識改革」と強力なリーダーシップに牽引され、前年の26勝から52勝と倍に増やし、初のファイナルへ進出している。またキッドが欠場するとチームの勝率は大幅に悪化するという、まさにチームの大黒柱と言える存在である。
キッドは巧みなパスで観衆を沸かせることができるスター選手(9度のNBAオールスターゲーム選出)であり、試合で見せるトリッキーなキラーパスは、彼の人気を支える大きな要因となっている。新人時代、ジャンプシュートが打てないことから「Ason Kidd」と呼ばれていたが、それでもシーズンを重ねるごとに改善されていき、2002-03シーズンにはネッツのスコアリングリーダーになった。現在は3ポイントシュートがスコアの大半を占めるほどである。
オールNBAディフェンスチームの常連である好ディフェンダーのキッドは、ディフェンスから得点チャンスを生み出すタイプのポイントガードであり、アップテンポなゲームメイクを好む傾向にある。得意のファーストブレイクを導き出すためにも自ら積極的にディフェンスリバウンドに参加し、ポイントガードとしては異例の数字を毎シーズン残している。高さ、スピード、パワーを兼ね備えたキッドは得点、アシスト、リバウンド、ディフェンスなど各方面で活躍できるため、リーグでも有数のオールラウンダーと見る意見も少なくない。
一方でターンオーバーの数が多い選手であり、1995-96、2001-02シーズンはリーグ最多を記録した。2000年11月27日のニューヨーク・ニックス戦では1試合だけで14回のターンオーバーを喫したが、この試合は18得点12リバウンド10アシスト14ターンオーバーのクアドルプル・ダブルの成績だった(ターンオーバーは対象外なので公式記録にはならない)。
また、オールスターゲームの最多3ポイント記録(11本)をコービー・ブライアントとタイ記録で保持している。
<ミスター・トリプルダブル>
優秀なポイントガードならば、得点、アシストともに毎試合二桁を狙えるが、キッドの場合は加えてリバウンドも二桁を記録することができるため、トリプルダブルを量産、達成した回数は現役では2位以下を大きく引き離して1位、歴代でもオスカー・ロバートソン、マジック・ジョンソンに次いで3位である。2007年のプレイオフ、ラプターズ戦では自身プレイオフ2回目のトリプルダブルを達成、ウィルト・チェンバレン、マジック・ジョンソンに次いで史上3人目のプレイオフでのトリプルダブル複数回達成者となり、プレイオフでの通算達成回数はマジック・ジョンソンに次ぐ2位となった。ちなみにトリプルダブル達成のチャンスを逃す選手の多くはリバウンド数やアシスト数が足りないが、キッドの場合は得点が足りないことが多い珍しいタイプである。
<その他>
・キッドは3人兄弟の長男で、サンフランシスコで黒人の父と白人の母の間に生まれた。現在は3人の子供たちの父親である。
・新人の頃は、「J」(ジャンプシュート)がないという理由で、「ason」(エイソン)と呼ばれていた。
・NBAではフリースローは放つ際に独自のルーチンを行う選手が多いが、キッドのそれはとりわけ奇抜であり、リングに向けて投げキッスをするというものである。これは前述の暴行事件の後から始められ、妻へ向けられているとされた。事件後2人は和解し、関係も良好と伝えられていてたが6年後に離婚。それ以後もこのルーチンはしばらく続けられていたが、徐々に動作が大人しくなり、ついには全くやらなくなってしまった。
<受賞歴>
新人王: 1995年
オールルーキーファストチーム: 1995
アシスト王: 1999(10.8), 2000(10.1), 2001(9.8), 2003(8.9), 2004(9.2)
オールNBAチーム
1stチーム: 1999, 2000, 2001, 2002, 2004
2ndチーム: 2003
オールディフェンシブチーム
1stチーム: 1999, 2001, 2002, 2006
2ndチーム: 2000, 2003, 2004, 2005, 2007
1試合最多得点:43得点 (vs ヒューストン・ロケッツ 2001年3月29日)
1試合最多アシスト:25個 (vs ユタ・ジャズ 1996年2月8日)
1試合最多リバウンド:19本
1試合最多スティール:6本
1試合最多ブロック:4本 (vs ユタ・ジャズ 1998年4月17日)
NBA歴代通算トリプルダブル達成回数:3位
NBA歴代通算アシスト数:7位
NBA歴代通算スティール数:12位