[ 2010年03月03日 ]

ヴィンス・カーター(Vince Carter)



<プレイヤー列伝>
ヴィンス・カーターことヴィンセント・ラマー・カーター(Vincent Lamar Carter、1977年1月26日 - )はアメリカ合衆国のプロバスケットボール選手。フロリダ州デイトナビーチ出身。北米プロバスケットボールリーグNBAのオーランド・マジックに所属。背番号「15」。ポジションは主にシューティングガード。



<NBA以前>
初めてダンクをしたのは中学1年生の時で、身長は既に173cmに達していた。高校ではバスケットボールと共にバレーボールをプレイ。バスケットではフロリダ州のミスターバスケットボールに選ばれ、バレーボールではアメリカ代表候補に選ばれたが、彼が選んだのはバスケットボールだった。カーターは、名門ノースカロライナ大学に進学。大学時代はアントワン・ジェイミソンらとプレイし、3年生の時にはオールACCファーストチーム、オールアメリカセカンドチームに選出された。ファイナルフォー敗退後、アーリーエントリーを宣言しNBA入りする。



<トロント・ラプターズ>
1998年のNBAドラフトでゴールデンステート・ウォリアーズが全体5位として獲得するが、即座にジェイミソンと交換でトロント・ラプターズにトレードされる。この年から活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得、オールルーキー1STチームに選出された。

2000年のNBAオールスターゲームにファン投票で最多投票を獲得し先発選手として出場した。また、スラムダンクコンテストにも出場し、試技5回中3回で満点を記録。驚異的なパフォーマンスを披露し優勝。ルーキーイヤー以外のオールスターゲームに2001年~2007年まで7年連続出場(ルーキーイヤーはロックアウトによりオールスターゲーム自体が開催されなかった)。その内の5回はファン投票の獲得数で決まる先発選手として出場した。2000年・2001年・2002年・2004年には、最多得票で選出されている。

2000年のシドニーオリンピックではトム・ググリオッタの代役で、アメリカ代表チームドリームチームの一員として出場、大活躍し金メダル獲得。

2001-2002シーズン終盤、ティム・ダンカンにファウルされた時に左膝を故障。すぐに回復するものと思われたが、想像以上に故障の度合いが酷く、長期の欠場。この間にチームは泥沼の16連敗を喫する。カーターは故障の癒えないまま連敗を止めるために一時復帰。なんとか連敗を止めるも故障の状態が思わしくないために内視鏡手術を決意。残りの全試合を欠場することとなった。しかし、カーターの欠場が決まった直後からチームは奇跡の14連勝を挙げプレーオフに出場。この事件をきっかけにファンやメディアの間でカーター不要説が囁かれ始める。

2002-2003シーズンも故障は完全に癒えておらず43試合のみの出場とシーズンの大半を欠場。何とか平均得点は20点代を記録するも、故障前の彼とは別人のようになってしまった。このころから、カーターの評価、存在感、チーム内での重要度が失われていった。

2003-2004シーズンは復活を果たす。73試合に出場し、平均得点も22.5とリーグ8位の好成績を記録。しかし、プレーオフには出場できなかった。HCの交代でチーム全体のオフェンスが機能せず、シーズン中に主力を入れ替えるトレードを行った事が原因とされる。カーター自身もチームの改革を望んでいた所、カーターとラプターズ首脳陣との間で「チームの新しい首脳陣の人事は君にも相談する」との約束が交わされる。しかし実際には何の相談も無く人事は決定(カーターはジュリアス・アービングのフロント入りを希望していたが叶えられなかった)。これに腹を立てたカーターはトレードを要求。そのままシーズンが開幕するも明らかにモチベーションの低いプレーを連発した。

ラプターズもカーターのモチベーション低下による散漫なプレイに仕方なくトレード要求を承認。2004年12月17日ニュージャージー・ネッツにアーロン・ウィリアムス、エリック・ウィリアムス、アロンゾ・モーニングとの交換で初の移籍を果たす。ちなみにこのトレードはラプターズにとって全く旨みの無いトレードで、近年最低のトレードとも評される。



<ニュージャージー・ネッツ>
移籍先のネッツは当時リーグ最高峰のポイントガードであったジェイソン・キッドが在籍していたチームであり、カーターとキッドのバックコートコンビは大いに注目を集めた一方で、カーターとプレイスタイルで被るリチャード・ジェファーソンとの共存については疑問視されていた。しかしジェファーソンはカーター移籍直後に故障。このシーズンで3人揃ってコートに立つことはなく問題は先送りになったが、新天地で心機一転したカーターは移籍後の平均得点ではリーグ2位に値する27.6を記録。(シーズン通算は24.3)故障者が多かったチームを滑り込みでプレーオフに導いた。

翌2005-2006シーズンにはようやく主力3名が揃って開幕を迎え、カーターは得点面で活躍。ジェファーソンとの共存も問題なくクリアし、かつての豪快なダンクも復活した。チームはデビジョンを制し、プレーオフに進出したが、カンファレンスセミファイナルでマイアミ・ヒートに敗れた。



2006-2007シーズンは主力選手であるネナイド・クリスティッチとジェファーソンが相次いで故障しチームから離脱するなか、カーターは82試合に出場。キッドと共に低迷するチームを支えた。ネッツは本来キッドを中心とするアップテンポなゲーム展開を得意としていたが、このシーズンからはカーターを中心とするハーフコートオフェンスが目立つように。ヴィンス・カーターはオールスター出場を逃すなど、やや物足りないシーズンとなったが、キャリア二回目のトリプルダブルを記録した。

2007-2008シーズンは序盤から指と足に故障を抱えた状態でプレーをした事もあり、平均得点は前年よりもダウン。チーム不調の原因にもなった。しかし、故障を抱えた状態での成績としては一定の評価を得る。平均得点20点以上、平均アシスト5以上、平均リバウンド5以上の記録を残したのはヴィンス・カーターの他にコービー・ブライアント、レブロン・ジェームズ、トレイシー・マグレディーの4人のみであった。チームはレブロン・ジェームズ獲得を視野に入れた改革に着手。チームの核であったジェイソン・キッド放出もあり、プレイオフ進出を逃す事となった。

2008-2009シーズンは昨シーズンの故障も回復し平均得点20.8点、平均アシスト4.7、平均リバウンド5.1とオールラウンドな成績を残し序盤はチームも健闘したものの最終的にはプレイオフ進出を逃す。チーム首脳陣はカーター中心のチームからデビン・ハリスを初めとした低コストの選手で構成し、2010年のFA選手(レブロン)を狙う戦略をさらに進めた。シーズン終了後、カーターは故郷にあるオーランド・マジックに移籍した。



<プレイスタイルと評価>
プロ入り当初は非常に好戦的な性格だった。それはNIKEなどのシューズメーカーが契約を渋るほどの激しさで、ダンクで相手をドミネイトすることを全面に押し出した彼のスタイルはリーグのベテランの怒りを買った。しかし圧倒的な身体能力とセンス、その強気な性格でルーキー中トップの平均得点と平均ブロックをマーク。当時はドライブやポストアップからのシュートが多く、いずれもゴールに近い位置でのプレイが多くみられた。高校生時代はパワーフォワードとしてプレイしていたこともあり、現在でもポストアップからのドライブやシュートを得意としている。

2000年シドニーオリンピックでは圧倒的なオフェンス力と非常に粘り強いディフェンスで大きく貢献。しかし最も特筆すべきは予選のフランス戦で見せた驚異的なパフォーマンスである。コート中央でボールを拾ったカーターはそのままゴールに突進。チャージングを狙って直立していたフランスの218cmのセンター、フレデリック・ワイスをそのまま飛び越えてダンクを叩き込んだ。このプレイだけでなく、全試合で攻守に活躍した彼は金メダルに大きく貢献し、今でも当時のオリンピックのプレイをベストとするファンも多い。 


2002年の膝の故障以降は、膝への負担を減らすためか、ジャンプシュートを中心とするスタイルにシフト。このプレイスタイルは大変に批判されたが、ネッツ移籍後のインタビューで「全力でのプレーでなかった結果だった」と語っている。最近はドライブも増え、以前よりはバランスの良いオフェンスを展開するようになったが、やや身体能力に陰りが見え、ダンクはオーソドックスな物しか披露しなくなっている。

カーターの大きな武器のとして、フェイド・アウェイが挙げられる。シュート自体の成功率はやや平凡だが、他の選手のそれよりも後方へのフェード幅が非常に大きいのが特徴。ブロックが困難でやや難しい状況からも狙いにいくことがある。右足を大きく上げる独特のフォームから繰り出されるジャンプシュート(フェイド・アウェイ)は近年の彼の得点パターンに多く盛り込まれている。

カーターはダンクだけの選手、と思われるのを嫌がっている。デビュー当時スカウト達に「ダンクと身体能力は凄まじいが、アウトサイドゲームがなっていない」とシュート力の無さを批判された事をきっかけにアウトサイドシュートを磨き、今ではポイントガードをこなすことがあるほど総合力を持つ選手に成長。当時は上手いとは言えなかった3ポイントも高確率で沈め、リバウンド、アシストでも及第点の数字を残している。3ポイントにいたっては近年では毎シーズン4割前後の成功率を残しておりこれはシューターと比較してもなんら遜色のない数値であり優れたアウトサイドプレイヤーであることを証明している。

リーダーになりきれない穏やかな性格からか勝負弱い、とのレッテルを貼られているが、実際はそうではない。チームのブザービーターを放つのは間違いなく彼であるし、そのブザービーターをこれまで何度も決めている。そういったプレッシャーのかかる場面でのシュートを放つことを躊躇しない選手である。しかし、一方でプレーオフなどの大事な試合で精彩を欠くことも少なくなく、「スコアラーであってウィナー(勝者)ではない」という厳しい評価を下されている。



<ダンクコンテスト>
プロ入り2年目の2000-01シーズン、2000年オールスターゲーム前日のNBAオールスター・スラムダンクコンテストでの優勝で全米を驚愕させたことでスラムダンカーの象徴となった。全5回の試技の内、3回で50点満点を、2回で49点という数字を叩き出した。1回目のダンクは逆回転360ウィンドミル。コート左側をウィークサイド寄りに切り込み、ゴール手前で踏み切ると360°体の向きを回転させて、腕を風車のようにグルリと回してリムに叩き込んだ。通常の場合は右利きであれば、進行方向と腕の振りから、反時計周りに回転するのが普通だが、カーターの場合は時計回りに回転するもので難易度も高く、美しい腕の振りがより強調され、いきなりの満点。2度目はボードの裏から助走無しで1度目のダンクと酷似したものを披露。49点であった。3度目は空中で受けたバウンドパスをそのまま空中で股の下を通しダンクするアリウープ・レッグスルー。こちらも満点で今、現在でも史上最高のスラムダンクとして記憶されている。4度目はダンクした腕をリムに肘まで入れてぶら下る、カーターオリジナルのエルボーダンクでまたも満点。最後の試技はボースハンドレーンアップで49点であった。すぐれた跳躍力だけでなく、オリジナリティ、空中でのボディバランス、芸術性など、ダンクコンテストの審査項目全てで、NBAの中でも歴史的なもので新世紀ダンク王の称号をその手中に収めた。



<その他>
・ラプターズ時代のチームメイトであり、現在ヒューストン・ロケッツに所属するトレイシー・マグレディとは従兄弟同士であるが実際に血の繋がりは無い。

・マイケル・ジョーダンのニックネーム、エアジョーダンにちなんで、かつてカナダのチームであるラプターズ所属であったことからエアカナダ(Air Canada)という呼び名を持っていた。その他にもプレイの素晴らしさから「半分人、半分驚異」(Half-man, Half-amazing)、名前の「ヴィンス」と「狂気の沙汰」(insanity)を組み合わせた「ヴィンサニティ」(Vinsanity)の呼び名もある。

・妻のエレンはジェイミソンの妻と姉妹で、大学時代はチアリーダーだった。

・1998年からバスケットボール選手としては初めてプーマのスポンサーシップを受ける。しかし、2000年のオールスターにプーマと契約中にもかかわらずAND1のシューズを履いて登場。しかもプーマのシューズが「足に合わない」との理由から契約解除を求めて裁判で争ったが敗れ、1,350万ドルの賠償金を支払うように命じられる。しかし当時人気絶頂のカーターとの独占契約をねらったナイキがその賠償金を肩代わりする事を申し入れ、カーターはナイキと契約を結んだ。

・残った大学の単位は夏季講習を受けるなどして修得し、2001年に卒業することになったが、卒業式の日はNBAプレーオフの対76ers戦第7戦の朝だった。プレーオフの最中でありながら卒業式に出席することは青少年に勉強の大切さを伝えるために良いアピールだと考えたカーターは式に出席し、その日の試合では20得点、9アシスト、7リバウンドをマーク。しかし、逆転を狙ったラストショットを外してしまい卒業式に出席した疲労が影響したとして批判される。