[ 2010年03月02日 ]

カーメロ・アンソニー(Carmelo Anthony)

カーメロー・アンソニー


<プレイヤー列伝>
カーメロ・アンソニー(Carmelo Kyan Anthony, 1984年5月29日 - )はアメリカのバスケットボール選手。北米プロバスケットボールリーグNBAのデンバー・ナゲッツに所属。ニックネームは「メロ」。ニューヨーク市ブルックリン区出身。背番号は「15」。身長203cm、体重104kg。2009年現在までに2003年のNCAAトーナメント制覇、2008年の北京オリンピック金メダリストという実績を残す、現役を代表するスター選手の一人である。



<生い立ち>
カーメロはニューヨーク市ブルックリン区でプエルトリコ人の父とアフリカ系アメリカ人の母の間に生まれた。父はカーメロが2歳の頃に癌で他界している。一家はカーメロが8歳の頃にボルティモアに転居。カーメロはこの地でバスケットボールのほかに、殺人や薬物中毒が蔓延するスラム街で「生き残る」ための術も学んだ。

高校はトーソン・カソリック高校に進学。2000年の夏には身長が5インチ(約13cm)伸びたことでバスケットボール選手として頭角を現し、2001年にはボルティモアの年間最優秀選手に選ばれている。カーメロはバスケット選手としてのキャリアをステップアップさせるため、全米随一のバスケット名門校として知られるヴァージニア州のオークヒル・アカデミー高校に転校。カーメロの名は全国区となり、マクドナルドオールアメリカンやUSAトゥデイオールアメリカン1stチーム、パレード誌オールアメリカン1stチームなどに選ばれ、スプライト・スラム・ジャム・ダンクコンテストでは優勝している。また同校在学中には彼より1学年下で後のライバルとなるレブロン・ジェームズ率いるセント・メアリー高校と対戦し勝利している(カーメロは36得点、レブロンは35得点をあげた)。この試合は全米でテレビ中継されるなどし、大きな注目を集めた。



<シラキュース大学>
オークヒル・アカデミー卒業後、シラキュース大学で1シーズン(2002-03シーズン)のみプレイした。カーメロは1年生から同校バスケットボールチームのエースとして活躍、22.1得点10.0リバウンドの成績を残し、チームを30勝5敗の成績とNCAAトーナメント進出に導く。シラキュース大はトーナメントも順調に勝ち進み、Final Fourのテキサス大学戦ではカーメロが33得点と爆発。これはトーナメントの新人最多得点記録となった。決勝ではニック・コリソンのカンザス大学と対戦。カーメロはこの試合でも20得点10リバウンド7アシストの大活躍を見せ、見事にカンザス大を破り、シラキュース大初のトーナメント優勝に導いた。カーメロは大会MVPにあたるMost Outstanding Playerを受賞したほか、AP通信オールアメリカン2ndチーム、NCAA新人王、カンファレンス1stチーム、カンファレンス新人王などに選ばれている。

カーメロは当初シラキュース大で2~3年プレイするつもりだったが、その後大学でやるべきことは全て達成したとして、2003年のNBAドラフトにアーリーエントリーすることを決意した。在学時のチームメイトにはハキム・ウォリック、ジェリー・マクナマラらがいる。



<デンバー・ナゲッツ>
NBAドラフトではレブロン・ジェームス、ダーコ・ミリチッチに次いで、デンバー・ナゲッツに全体3位で指名された。カーメロはルーキーシーズンの開幕戦から先発に抜擢され、6試合目には早くも30得点をあげ、当時30得点以上をあげた史上2番目に若い選手となり(最年少はコービー・ブライアント)、2月9日のメンフィス・グリズリーズ戦では20得点をあげ、通算1,000得点を史上3番目の若さで達成した。カーメロは史上4人目となる、6ヶ月全てのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占(イースタン・カンファレンスではレブロン・ジェームスがやはり全てのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占している)し、週間MVPにも2度選ばれるなど、ルーキーらしからぬ活躍を見せ、このシーズンはルーキーの中では1位、全体でも12位となる平均21.0得点をあげ、平均6.0リバウンドを記録した。チームも前年の17勝65敗という酷い不振から43勝39敗という大躍進を遂げ、実に9年ぶりとなるプレーオフ進出も果たした。新人王争いではレブロンとの一騎打ちとなり、個人成績でもチーム成績でも上回るカーメロが有力視されていたが、投票では惜しくも2位に終わり、新人王獲得の栄誉はレブロンに譲ったが、カーメロこそ新人王に相応しいとの声も多く挙がった。プレーオフ1回戦ではミネソタ・ティンバーウルブズと対戦し、1勝4敗で完敗。華々しいNBAキャリアをスタートさせたカーメロだが、プレーオフではこの1回戦の壁に苦労することになる。

翌2004-05シーズンは調整不足が原因で体重オーバーのままシーズンに突入。シーズン前半は大苦戦し、プレーオフ進出も危ぶまれたが、ヘッド・コーチがジョージ・カールに変わってから一転。オールスター後、リーグ1位の勝率と怒濤の巻き返しの末に第7シードでプレーオフに進出した。オールスターのNBAルーキーチャレンジでは31得点をあげ、MVPを獲得している。プレーオフではこの年のチャンピオンのサンアントニオ・スパーズとのシリーズに先勝したものの、その後、カーメロがブルース・ボウエンによってうまく封じ込まれ、4連敗でシリーズを終えた。

前年成績が伸び悩んだカーメロは2005-06シーズンに入るとシュートセレクションの改善に大きく成功し、平均26.5得点を記録して初のオールNBA3rdチームに選出される。3月17日のメンフィス・グリズリーズ戦では30得点をあげてレブロンに次ぐ史上2番目の早さで通算5,000得点を達成した。3月第2週には週間MVPを獲得するが、この期間中カーメロは5本のウィニングショットを決めるという勝負強さを発揮している。チームは故障者続出の影響でカーメロが加入して以来初めて勝率を落として44勝38敗の成績に終わり、プレーオフもまたもや1回戦でロサンゼルス・クリッパーズの前に1勝4敗で敗退した。



オフには世界選手権にアメリカ代表として出場。主に得点面で大きく活躍し、2006-07シーズンはその勢いを維持したまま突入。シーズン序盤にはアレックス・イングリッシュの持つ6試合連続30得点以上達成というチーム記録に並ぶなどし、得点王レースではコービー・ブライアントとトップ争いを演じた。しかし12月16日のニューヨーク・ニックス戦での乱闘騒ぎでマーディー・コリンズを殴ったカーメロは15試合の出場停止処分を受ける羽目になった。しかしその間ナゲッツはアンドレ・ミラーらとの交換で大物選手のアレン・アイバーソンの獲得に成功。当時得点王ランキング1位と2位につけていたカーメロとアイバーソンのデュオは、リーグ最強のスコアリングデュオとして大きな注目を集めるようになった。カーメロ個人はアイバーソンと得点機会を分け合うことになったため、得点王レースではブライアントに破れ2位に終わったが、28.9得点6.0リバウンドの好記録を残し、2年連続でオールNBA3rdチームに選ばれた。2月2日にはチームメイトのJ.R.スミスが運転する車が事故に遭い、その車にカーメロも同乗していたが(車はカーメロ所有のもの)、3日後の試合では31得点10リバウンド10アシストをあげてキャリア初のトリプル・ダブルを達成し、事故の影響を微塵も見せなかった。待たされたオールスターゲームにも、故障者の代理という形ではあるが、ようやく初出場を果たしており、20得点9リバウンドをあげている(ナゲッツにとっては2001年のアントニオ・マクダイス以来のオールスター選手)。カーメロの活躍やアイバーソンの移籍と大きな話題が続いたが、ナゲッツ自体はカーメロの出場停止処分や前年に引き続き故障者の続出で45勝37敗の平凡な成績に終わり、プレーオフではまたしても1回戦でスパーズの前に敗退した。

2007-08シーズンのナゲッツは1987-88シーズン以来の50勝超えとなる50勝32敗を記録するが、プレーオフは5年連続1回戦敗退となり、カーメロ&アイバーソンのデュオは期待されたほどの効果を見せることはなかった。カーメロ自身は25.7得点7.4リバウンドと上々の数字を残すが、オールNBAチームの選考からは漏れ、またプレーオフ期間中には飲酒運転で捕まるなどチームキャプテンにあるまじき態度が批判された。



2008-09シーズンを迎えて、ナゲッツも変革の時を迎えた。カーメロというフランチャイズビルダーのもとでの5年間、毎年プレーオフには進出してきたが、5年連続で1回戦敗退を続けており、現体制に限界を感じたナゲッツはチームの改革に踏み切ったのである。シーズン前には殆ど無償でマーカス・キャンビーを放出。さらにエドアルド・ナヘラも放出したことで、新シーズンのナゲッツは苦戦が予想された。ところがシーズン開幕して間もない時期にアイバーソンとチャンシー・ビラップスのトレードが成立。ビラップス加入の効果はナゲッツを大きく変化させた。カーメロ個人はビラップスという百戦錬磨のベテランを相棒に得たことでチームリーダーとしての負担が大きく軽減されプレイに集中することができ、特にディフェンス面ではオフに北京オリンピックでコービー・ブライアンらとプレイしたことでディフェンスに対する意識が大きく向上した。また持ち前の得点力も大いに発揮し、12月10日のミネソタ・ティンバーウルブズ戦の第3クウォーターではNBAタイ記録である、1クウォーター33点を記録した。1月4日のインディアナ・ペイサーズ戦では手を骨折するというアクシデントに見舞われ、手術する選択肢もあったが、アンソニーは手術で試合を欠場するよりも添え木で固めて強行出場する道を選んだ。また3月1日のペイサーズ戦ではジョージ・カールHCの交代命令に従わなかったとして1試合の出場停止処分を受けたが、処分明けの試合ではカールHCから交代を指示されると、全速力でベンチに戻るという一幕が見られた。カーメロの活躍やビラップスの獲得、これまで度重なる故障に悩まされてきたケニオン・マーティンやネネらビッグマンの復活もあり、ナゲッツは好調のシーズンを送り、1990年代以降では最高勝率となる54勝38敗を記録。カーメロ自身は22.8得点6.8リバウンドと近年では最も低い数字に終わったが、プレイの質が向上したことが評価され、オールNBA3rdチーム復帰を果たした。プレーオフではニューオーリンズ・ホーネッツを破ってついに宿願の1回戦突破を果たし、カンファレンス準決勝ではダラス・マーベリックスを降して、カンファレンス決勝まで進出した。



<アメリカ代表>
2004年、バスケットボール男子のアメリカ代表としてアテネオリンピックに出場した。アメリカ代表はオリンピックではNBA選手が出場するようになった1992年から3大会連続で金メダルを獲得していたが、3位の銅メダルに終わった。彼自身はヘッド・コーチのラリー・ブラウンとの不仲が報道されて、ほとんどプレータイムをもらえなかった。

2006年、日本で行われた世界選手権の代表にもなった。彼はドウェイン・ウェイド、レブロン・ジェームスらとともに、チームをひっぱったがギリシャに敗れ3位の銅メダルに終わった。なお8月23日に行われたイタリア戦ではアメリカ代表記録となる35得点をあげた。これまでの記録は1990年のケニー・アンダーソンの34得点だった。また、大会ベスト5にも選ばれた。



2008年、北京オリンピックでもチームの主要得点源として活躍。準決勝のアルゼンチン戦ではチームハイとなる21得点をあげ、フリースローは13本中13本を成功させ、アメリカ代表の1試合のフリースロー成功率と成功数の新記録を作った。決勝のスペイン代表戦では13得点をあげ、アメリカの金メダル獲得に大きく貢献した。大会期間中カーメロは11.5得点4.3リバウンドの成績だった。



<プレイスタイル>
ジャンプショットを中心としたスタイルで得点を稼ぐリーグ屈指のスコアラー。1オン1スキルに非常に長けており、特に左右へジャブステップでフェイクをかけ、相手を揺さぶり、ボールが低い位置にあるところからのジャンプシュートは圧巻と言える。身体能力に恵まれており、素早いカットインからの両手ダンクなども得意で、チャンスとあらばアリウープダンクを狙う。フィジカルも強くポストプレーも得意とし、リバウンドの能力も高い。スピードとパワーを兼備している点で、オフェンス面ではレブロンジェームズに次ぐフォワード選手である。 また3ポイントなどのミドルレンジシュートは、ライバルのジェームズやウェイドより上である。




<私生活>
・2004年のクリスマスにプエルトリコ系アメリカ人のディスクジョッキー、ラ・ラ・バスケスと結婚。2007年3月7日には長男に恵まれる。 

・ チャリティー活動も行っており、特に故郷のボルティモアでは3on3のチャリティーゲーム開催や青少年センターを創設するなど、熱心な活動を展開している。